石川啄木「一握の砂」をめぐって 萩原朔太郎とジャンルをまたぐ同一モチーフ  

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石川啄木「一握の砂」をめぐって 萩原朔太郎とジャンルをまたぐ同一モチーフ

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石川啄木の「一握の砂」の短歌の一首に触発されて、萩原朔太郎が詩「旅上」を作ったという。

詩と短歌、ジャンルをまたがる両者を見てみようと思います。

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石川啄木の短歌と萩原朔太郎「旅上」との比較

石川啄木の「一握の砂」の短歌の一首に触発されて、萩原朔太郎が詩「旅上」を作ったという記述を読みました。

早速、二つを見比べてみましょう。

石川啄木の短歌

 

あたらしき背広など着て
旅をせむ
しかく今年も思ひ過ぎたる

 

萩原朔太郎「旅上」の詩

今度は、朔太郎の「旅上」の方。

 

  旅上

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
――――「抒情小曲集」より

 

萩原朔太郎と短歌

朔太郎には詩人としての前に、「ソライロノハナ」という自筆歌集があり、短歌には大いに関心があったようだ。

当然、啄木の歌集との接点もあっただろう。

なぜ、そのまま短歌を続けなかったのかはわからないが、朔太郎の詩の特徴として、リズム感の欠如を挙げる人もいる。

もっともこれこそが「定型詩」というものだろう。

たとえば中原中也などは、詩であっても

「汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる/汚れつちまつた悲しみに/今日も風さへ吹きすぎる」

のように、七五調が基調をなすものが多く、リズムへの要求が高かったといえる。

中也の詩は「ダダイズム」のそれまでの詩のあり方である伝統を脱したところにあるはずなのだが、日本の古い詩体である七五調はそのまま受け継がれている。

七五調の場合には当然言葉の選択は制限されることになる。

おそらく、作田露の場合はリズム感の欠如というより、律を保つことよりも、言葉の自由性の方を重視したのだろう。

一方、こうやって、並べてみると、朔太郎のはもちろん詩なのであるが、啄木の方はむしろ短歌というよりも、詩的とも言えるようなある種の自由性が漂うような感じがしてこないだろうか。

朔太郎以上に啄木の方にも、おそらく短歌を越える発想の自由を求める資質があったのだろう。

啄木を歌人と取られる人は多いが、啄木は最初から歌人を目指していたわけではない。

啄木は、度重なる難破の末に、歌人に漂着した人であった。

 

萩原朔太郎「月に吠える」との類似

もうひとつ、石川啄木の短歌に、朔太郎の歌集タイトルを容易に呼び起こさせるものがある。

わが泣くを少女(をとめ)等聞かば
病犬(やまいぬ)の
月に吠ゆるに似たりといふらむ

啄木の上の歌からは、容易に朔太郎の詩集タイトル「月に吠える」が思い浮かぶ。

「月に吠える」から、「月に吠える」のイメージに近い犬の詩を引く。

  見しらぬ犬

この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる、
みすぼらしい、後足でびつこをひいてゐる不具(かたわ)の犬のかげだ。
ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、
わたしのゆく道路の方角では、
長屋の家根がべらべらと風にふかれてゐる、
道ばたの陰気な空地では、
ひからびた草の葉つぱがしなしなとほそくうごいて居る。
ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、
おほきな、いきもののやうな月が、ぼんやりと行手に浮んでゐる、
さうして背後(うしろ)のさびしい往来では、
犬のほそながい尻尾の先が地べたの上をひきずつて居る。
ああ、どこまでも、どこまでも、
この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる、
きたならしい地べたを這ひまはつて、
わたしの背後(うしろ)で後足をひきずつてゐる病気の犬だ、
とほく、ながく、かなしげにおびえながら、
さびしい空の月に向つて遠白く吠えるふしあはせの犬のかげだ。

最終行「遠白く」というのは、これは万葉集にも見られる古語のひとつ。

 

むしろ詩的な石川啄木の歌

上に、中原中也が詩でありながら、五七調を好んだことを書いたが、あるいは、逆に石川啄木の歌は、短歌ではあっても、どこか詩の方に近接した短歌とはいえないだろうか。

「一握の砂」の歌。

頬(ほ)につたふ
なみだのごわず
一握の砂を示しし人を忘れず

定型ではあっても、啄木の歌は、伝統的な用法や語彙、発想に縛られない「新しい」短歌だった。

啄木を歌人と呼ぶのは若干の違和感があるが、良くも悪くも、その逸脱が啄木の出発点であった。

斎藤茂吉にもある石川啄木の痕跡

なお、斎藤茂吉の「どんよりと空は曇りて居りしとき二たび空を見ざりけるかも」は、啄木の「どんよりとくもれる空を見てゐしに人を殺したくなりにけるかな」とも共通性が認められる。

いつの時代もそうだが、ジャンルを越えて、作品上の疎通があったことは疑いない。

なおそれぞれの詩集と歌集を年代順に言えば、「一握の砂」の発行が1910年、明治43年で、もっとも早く、茂吉の『赤光』が1913年、大正2年、朔太郎の「月に吠える」は1917年であった。

人同士の接点はなくても、ジャンルや作風をまたがる作品上の接点が見られるのは、興味深いところではないだろうか。




-石川啄木

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