万葉集に関する各論文を集めた本。和泉書店刊「万葉の歌人と作品」より。
紀伊国にして作る歌四首。著者西沢一光。
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もみち葉の過ぎにし児らと携はり遊びし磯を見れば悲しも 9・1796
塩気立つ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹とが形見とそ来し 9・1797
古へに妹と我が見しぬばたまの黒牛潟(くろうしがた)を見ればさぶしも 9・1798
玉津島磯の浦廻(うらみ)の砂(まなご)にもにほひて行(ゆ)かな妹も触れけむ 9・1799
時間的隔絶の形象
この項も大変おもしろい。
西沢は、妹の死を表すのに、「過ぐ」が死の間接的な表現であるとして「過ぐ」のみを挙げるのは不十分で、「もみち葉の過ぎにし子ら」全体が死の時間的表現であるとする。ひいてはこの歌群全体が現在と過去の時間的対比に成り立っており、そしてそのような時間的隔絶感が人麻呂にとっての「死」の表現であるとする。
「もみち葉の」はたしかに映像的な比喩性を持っているが、その映像生は一首全体の映像に参加するものではなく、むしろ「過ぎにし児ら」という表現を呼び起こすことにおいて尽きてしまうのだ。この意味で、茂吉の(この表現に対する)「枕詞の格」という言い方は、含蓄に富んでいる。
ここに聴覚を通じて直接に聴き手の心に働き掛け、聴き手を誘引していくという口誦の詩の技法に匹敵するものを、認めておくことができる。枕詞の言語的喚起力がまさに書く行為のさなかで立ち上げられているのである。(『万葉の歌人と作品』西沢一光
佐太郎ならこれを「虚語」と呼ぶかもしれない。紅葉が時間のイメージを含むものだということにあらためて思い当たる。付け足すと四首組みのうちの冒頭の一首であることに、何らかの関連もあるかもしれない。厳密な連作かどうかは、そのあとの項で検証されている。
もみち葉の過ぎにし児らと携はり遊びし磯を見れば悲しも 9・1796
塩気立つ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹とが形見とそ来し 9・1797
古へに妹と我が見しぬばたまの黒牛潟(くろうしがた)を見ればさぶしも 9・1798
玉津島磯の浦廻(うらみ)の砂(まなご)にもにほひて行(ゆ)かな妹も触れけむ 9・1799
4「『児ら』から『妹』へ」。品田悦一の「呼称の表現性」が取り上げられている。
一七九六歌について、
恋人との思い出が話者との現在にとってもはや遠い昔のものでしかないことを「悲しも」と悲嘆するのであり、その隔絶感において彼女は「児」と間接的に捉えられる。(『万葉の歌人と作品』西沢一光)
対して一七九八歌、
同じく過去のものであることを認めつつも「形見」を通してその思い出に浸ろうとする意思を歌うのであって、児の対象への接近の志向を「妹」の適用が果たすのである。(同)
以下、西沢。
事は、まさに表現者と対象との距離にかかわる問題として明確に輪郭づけられる。それは、狭義の抒情表出を超えた、より根源的な主体の情動の表出として押さえるべき問題系だと言わねばならない。主体と対象との距離という、いわば生きられることにおいてしか意味を持たぬものが、呼称の使い分けにおいて、言語化されているのである。 そもそも隔絶感や接近への志向などといったものは、概念化不可能なものである。ここで言われる「隔絶感」ないし「接近への志向」は「見れば悲しも」や「見ればさぶしも」という概念を伴った形での抒情表現と連繋してはいるのだが、抒情性そのものではない。むしろ抒情の根底をなす表現主体の情動や気分の問題であり、主体と対象の関わり方の問題に属する。 このように見てくると、恋人への隔絶感において「見れば悲しも」という表現が選ばれ、恋人への接近の志向を強める中で「見ればさぶしも」が選ばれたと考えてよい。品田の言うとおり、「見ればさぶしも」においては、過去への回想が単なる回想にとどまらず、昔と同様に妹と共にありたいという方向に大きく踏み出しているのである。それは「見れば悲しも」において深々とたたえられている断念の語気と対照的でさえある。(同)
付け足せば、どことも知れない「磯」「荒磯」は、三首以下は実名の地名「黒牛潟」「玉津島」となって実在性を強めている。
冒頭の「もみち葉の」という「枕詞の格」の虚語の非具体性は「砂」という具象に焦点を狭め、死者の心象が生者に触れ得る実在の物に転じるのと同時に、読者にとっても容易に心に浮かべられる要素となる。
「妹も触れけむ」の過去の推量は結句に置かれ、回想よりも作者の居る場所と行動といった歌と同時点での要素が上句に置かれることも、前二首とは対照的であり、「古に」との時間制の逆転も歌の輪郭を強めるものとなるだろう。
解析のハンドルとして挙げられているのは時間性と呼称なのだが、歌の表現はそれのみにはとどまらない。
口承と文字化について
ここに聴覚を通じて直接に聴き手の心に働き掛け、聴き手を誘引していくという口誦の詩の技法に匹敵するものを、認めておくことができる。枕詞の言語的喚起力がまさに書く行為のさなかで立ち上げられているのである。
死者である「児ら」「妹」という呼称詞には文字通り「呼びかけ」の呼吸が生かされていると言えよう。それは対面的な場における口語言語の特質であり、所作や表情、音楽や舞踏によってより効果的に表現することができるものでもあろうが、文字言語によっては表すことが困難な要素であった。なぜなら、漢字は表意文字であり、概念化され得るものしか示せないからである、人麻呂歌集の「文字化」の営みが、概念化から逃れ去るような情動性を捉えようとしていることは韻文の文字化の問題として今後もますます大きな重みを持つことだろう。