短歌の「人生物語」は否定されるべきか「短歌という爆弾」穂村弘  

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短歌の「人生物語」は否定されるべきか「短歌という爆弾」穂村弘

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新アララギ誌の横山季由氏のエッセイ中にあった本なので読んでみたが、思ったよりもおもしろく読めた。

穂村の言うのが、いわゆる「人生物語の否定」、横山氏の言うのは、それへの反論である。

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穂村氏はニューウェーブ短歌、前衛短歌の続き、つまり短歌の流れの一番先端に居る歌人だと言っていいと思う。そして今ネット上や同人誌で短歌を詠んでいる人たち、穂村氏の呼び方に倣って言うと、新世代の詠み手が手本とするもの、短歌というのはこういうものだと思って目にしているものは、ほとんどがライトヴァースにつながる口語短歌ということになるだろう。

短歌は小説よりも歴史の長い文芸なので、どの時代のものを見るかによって内容は大きく違う。新世代の多くは写実派の短歌をアンチテーゼとして前衛を名乗って詠み始めたのではなくて、短歌史の続きとして語られてはいても、彼らの意識はまったく別の位置に居て、従来の結社とは別のコミュニティーの中で歌が育っていると言える。

穂村氏の言う中でおもしろいなと思ったのは、

「もしかすると先行世代が最も嫌悪したのは、口語という文体ではなくて、欲望への衒いのない順接性かもしれませんね」

という部分。写実派の歌でも口語で読むことは可能であり、実際そうしている人も居る。

それ以上に現代の短歌は文体の問題よりも、まず近代短歌のコンセプトを継承していないというところにありそうだ。抒情や詠嘆といったそれまでの主題とは異なる主題を持っているとも言える。

上記の「欲望への順接性」も含めて、新世代の場合、自分の内側に穿たれていくような欠落や、生への嗟嘆も詠む対象として現れてはこない。先行の短歌を「人生物語」とし、作中主体が作者であるという近代短歌に通底する概念を否定する。

なぜそのような断裂が生じてしまったのかというと、先行作品が受け入れられなかった原因の多くは、馴染みの薄い文語で書かれたものであるからのように思える。

一読して意味内容が取りにくいので多読ができず、ゆえに、コンセプトもまた継がれようがなかった。口語で詠む以前に口語で読めるものが選択されたという、その母体の差が現在の断裂を生んでいるように思える。

穂村氏の言う「人生物語」の否定に、横山氏は「幻の自分を、言葉の美しさで詠みあげた短歌に、何の意義があるというのか。」と反論するのはもっともであるが、かつての前衛短歌のような旧来の短歌をアンチテーゼとして立つという意識もない以上、そこに彼らにとっては馴染みの薄い「正しい」短歌の示唆や継承といった訓示も無効であろう。

難しいのは媒体となる言葉それ自体が断絶を生む要因であるのなら、単に先行となる作品を遠巻きに提示するだけでは影響は及びにくい。写実派にとっての魅力的な歌が文語である以上、彼らの作品と同種のものとして読まれることは少ないだろう。

逆に先行短歌を学んだ者が口語短歌を読むのには、言語的には何の支障もない。文語口語の二語に通じる者のみが両者の橋渡しが可能な役回りとなるだろう。写実の理念のバトンを持つのが私たちならば、既に詠んでいる人たちである彼らもバトンを受け取る可能性を持つ。
渡すべき相手を探し、接点を探すのも作品の提示と共に写実派に課せられた役割なのかもしれない。

今回初めて新世代の短歌の本に目を通したが、文語の短歌と言っても一様ではないように、口語短歌も十把一絡げではない。口語だからどれもがオノマトペ満載、あるいは既存のライトヴァース風というのでもない。「人生物語」を否定する穂村氏と同時期受賞の俵万智の作品に私生活の投影があるのは周知の通りである。

「もし近代短歌というコンセプトに賛同しますという署名をしてしまったら、それは実人生の方が表現よりも価値があるという身も蓋もない価値観を認めることになっちゃうものね」(穂村弘「短歌と言う爆弾」)

近代短歌に関してもいろいろな考え方があると思う。写実派の短歌にも表現はある。茂吉が「技術」といったものがそれに当たるだろう。そういう広義の短歌ならではの表現は「実人生」と二者択一で挙げられるようなものではない。

そもそも表現と人生が比較の対象として並ぶのはおかしなことだし、両者が拮抗しうるものだというのも理解できない。詩歌においてどちらが大切かと問われれば、表現であるのは言わずもがなのことである。

実人生は題材にはなり得るが、題材は短歌の主要なコンセプトではなく、介護であろうが死別であろうが相聞であろうが、表したいものはすべて同じであると考える。

風景詠に作者は必ずしも登場しないし、古くからの秀歌はそれが日常生活の断片であっても、いずれも普遍的な内容であり、矮小な物事を題材としたものに佳作は少ない。

つまり歌の表現、もしくは内容とおぼしき穂村氏の差すものは狭義で、短歌というもの、少なくても先行短歌の本質ではない。上記のような要素は、それを知る作者が意識して詠んだ短歌の中にあり、個人的な題材が取られていても、それはもはや私人の文芸の域ではなく、それを知るためには先行作品を漫然と読む以上の学びの姿勢が欠かせない。

今私たちが先人の作品を読み、茂吉や文明が万葉集を読んだというのも、やはり同じような理由になると思う。




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