朝日新聞一面の朝刊コラム「折々のことば」の今朝はおもしろかった。
とりあげられた今日の言葉は「あつまれ」。
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--------「あつまれ」 ある2歳児
言葉を覚えはじめた幼児は、一つの規則を知ると、推理を働かせすぎて奇妙な活用をする。この子はまだ使役形が使えず、人にしてもらいたことがうまく言えない。器に残ったヨーグルトを「かき寄せて食べさせて」と言いたいところを、だから上のように言った。
コラムは「物にも呼びかけるということを大人はわすれてしまったのかも。」と結ばれている。
しかし、記事を読んでにっこりした後、ふと、思うのだ。
あるいは詩歌に親しんだ人なら、「ヨーグルトが集まる」ということも、十分あり得ることを知っているかもしれないと。
それは単に修辞、比喩のことだけを差すのではない。
ヨーグルトが、陶器の碗の真ん中に小さな山をなしている。それが朝の光を受けて、雪をかぶった山の頂のように見える時、ヨーグルトは、そうなろうとして自ら「集ま」ろうとしなかったと言えるだろうか。
八木重吉の詩を見てみよう。
このあかるさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴はしづかに鳴りいだすだろう
「秋の美しさに耐えかね」て、自ら鳴り出すものは、詩人がその明るさの中に置いた「琴」である。
不思議なことに、大人になった我々は、言葉を十分に知りながら、ヨーグルトが集まったり、琴が鳴り出したりする、もう一つの言葉とその世界を持つことを知っている。
世界は観念によって決まり、言葉が観念を作り出す。そもそもその牛の乳の凝りを「ヨーグルト」と呼ぶことすらが、名づけであり一つの観念なのである。
言葉は科学の対象外にあり、不思議なことに実証の圏外にあるものを我々は互いに鑑賞し合うこともできる。
我々が言葉を使って描き出すのは、どこまでも自由を約束されているといえる。
そして、子供とは違って、言葉の活用を十分に熟知し、言葉を熟知した上で、さらに「子供の心」への回帰を果たす。
それもまた、言葉がもたらした逆説的な豊かさだろう。
さあ、窓の外を見てごらん。
光が見えるだろうか。
昨日積もった雪の輝き、風にそよぐ木の梢、時折行き交う鳥の声・・・
その中で、今鳴り出だそうとするものを、ためらわず言葉で紡ぎ出そう。
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