歌人と作品

若山牧水と園田小枝子の恋愛と作品への影響 歌集「海の声」「別離」

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若山牧水には若山喜志子と結婚する前にも恋愛の経験がありました。その時の相手、園田小枝子との交流に際して詠んだ短歌作品は、いずれもよく知られている有名なものばかりです。

牧水の恋愛が作品にどう影響したか、なぜ小枝子との恋愛がうまくいかなかったのか、詳しく読む機会があったので、作品と対照しながらご紹介したいと思います。

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牧水と小枝子の出会いと別れ

明治39年、牧水がまだ早稲田大学の学生だった頃、神戸市の親類の家に泊ったその時、延岡中学校で同期だった学友日高園助という人が迎えに来ました。

日高が、一目ぼれした赤坂カヨと交際し始めたが、カヨの両親の反対にあって困っていると聞いた牧水は、赤坂家に出かけていき、そこで赤坂当主の姪である園田小枝子を見かけたといいます。それが牧水と園田小枝子との最初の出会いでした。

 

小枝子との再会と交際 「海の声」より

翌年、東京にいる牧水の元を小枝子が訪問。上の学友の日高が、東京の自活したいという小枝子を手助けしてくれるよう、牧水宛ての紹介状を書いたためでした。

牧水は小枝子を誘って、武蔵野を散歩したといいますが、まだその時はそれほど親しんだわけではなかったようです。

翌年2月、牧水は仲間と旅行。一生を通じて旅を続けた牧水ですが、長い旅行はこの時が初めてでした。おそらく小枝子と知り合った高揚感や恋愛の感傷も伴っていたのでしょう。

山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく


詠んだのが、現在皆に愛唱されている、有名な次の歌です。

幾山河(いくやまかは)越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅行く

そして、小枝子への思慕がうかがえる歌もみられます。

ただ恋しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき

旅を終えた牧水は友人に「近頃になって断然純文学者となって決死の意を以って猪進することに決めた」と書き送っています。

小枝子との旅

同年12月、牧水は小枝子を連れて南房総市の根本という海岸に行き、「かなしげに星はふるなり恋ふる子等こよひはじめて添寝しにける」と詠んだように、そこで小枝子と結ばれます。

「女ありき、われと共に安房の渚にわたりぬ。われその傍らにありて夜も昼も断えず歌ふ。明治41年早春」の詞書で作られたのが、これも有名な「白鳥は哀しからずや」を含む一連。です。初出の歌集タイトルは「海の声」。のちに「別離」にも収められました。

海哀し山またかなし酔ひ痴れし恋のひとみにあめつちもなし
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

そして小枝子との初めての口づけの場面。

ああ接吻海そのままに日は行かず鳥翔ひなから死せ果てよいま
接吻(くちづ)くるわれらがまへに涯もなう海ひらけたり神よいづこに
山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君

ひじょうに高揚した調子の高い歌の数々に、牧水がいかに小枝子に惹かれ、恋愛に夢中になったのかがうかがえます。

いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや
みんなみの軒端のそらに日輪の日ごとかよふを見て君と住む

そして、牧水は小枝子との結婚の考えを友人に書き送ります。

僕は君、これは真面目な話だが、もういっそのこと結婚してしまおうかと思う。(中略)とにかくその方がよさそうだ、いかがだろう。
一言を附す。女は極めて平凡の方なり。しかしまた加えて言う。われらはお互いに惚れた仲なりとわれ見る。

 

おのづから熟みて木の実も地に落ちぬ恋のきはみにいつか来にけむ

「来にけむ」の「けむ」というのは過去の推測で「来たのだろう」という意味ですが、その通り、牧水はこの結婚を機が熟したものとして、上の手紙の通り真面目に考えていました。また小枝子を「極めて平凡」と冷静に客観的に見てもいます。

しかし、「われらはお互いに惚れた仲なりとわれ見る」というのは後になってみると哀しい文言でもあります。

結婚を受け入れなかった小枝子

その頃、牧水の方は

吾妻はつひにうるはし夏たてば白き衣(きぬ)きてやや痩せてけり
樹々の間に白雲見ゆる梅雨晴れの照る日の庭に妻は花植う

と小枝子を「妻」と呼び、家庭的にも見える小枝子の居る情景をも歌っているにもかかわらず、小枝子は結婚を受け入れなかったのです。二人の間に溝が出来始めます。

とこしへに解けぬひとつの不可思議の生きてうごくと自らをおもふ
このごろは逢へばかたみに絵そらごとたくみにいふと馴れそめしかな
別れてきさなりき何等ことなげに別れきその後幾夜経ぬるや
あめつちに頼るものなしわがなみだなにいたづらに頬をながれたる

牧水は早稲田大学を卒業して、「海の声」を自費出版したのもこの年。
懊悩の果てに、牧水は小枝子との関係を諦めきれないまでも諦めようとします。

しかし、牧水自身も「恋ひに恋ひうつつなかりしそのかみに寧ろわかれてあるべかりしを」と詠ったように、これで小枝子との関係が終わっていたら、ずっとよかったでしょう。

そこから二人の関係はさらに複雑なものとなって切るに切れなくなってしまうのです。

小枝子と従弟

小枝子は東京で、従弟の赤坂庸三(ようぞう)の下宿に同居していました。ところが、小枝子は今度はその従弟の庸三と深い関係になってしまいました。

というよりも、最初の根本海岸への旅行の際も、庸三が同行していたと言いますから、その時でさえ、牧水と二人だけの旅行ということではなかったようなのです。

はっきりとはわかりませんが、牧水が「われらはお互いに惚れた仲なりとわれ見る」と書いていても、小枝子の方はそうではなかったのでしょう。
というのは、園田小枝子は、15歳で結婚しており、二人の子供が居る状態だったからです。

さらなる苦悩-小枝子の妊娠

牧水は、そのようなことも知ってか知らずか、庸三に嫉妬をして監視をしようとしたのか、庸三の下宿の小枝子の部屋に泊まり込むようになり、気持ちがすさんでいきます。

そして、やがて小枝子が妊娠していることがわかるのです。牧水はそれが庸三の子なのか、自分の子なのかを疑います。
小枝子と居ると束の間満たされますが、小枝子を責めても事態は変わりません。

君見れは獣のごとくさいなみぬこのかなしさをやるところなみ
なほ飽かずいやなほあかず苛みぬ思ふままなるこの女ゆゑ
とぼとぼとありし若さのわがむねにかへり来るなり君をいだけば

そしてやはり、そのような不幸にも終わりが見えてきます。
それはまた小枝子との恋愛の終わりでもあるのでした。

沈丁花みだれて咲ける森にゆきわが恋人は死になむといふ
憫れまれあはれむといふあさましき恋の終りに近づきしかな
女なればあはれなればと甲斐もなくくやしくもげに許し来つるかな
唯だ彼女が男のむねのかなしみを解し得で去るをあはれにおもふ

牧水は、小枝子を攻めながらも女だから、かわいそうだからと、許そうとしているのに、小枝子は、そのような牧水の情に胸を打たれることもなく理解すらできない。
むしろ、それを牧水は憐れみを感じるようにもなります。

別れを告げる時の小枝子も淡々として、牧水にははなはだ冷たく映ります。

別れゆきふりもかへらぬそのうしろ見居つつ呼ばず泣かずたたずむ
山奥にひとり獣の死ぬるよりさびしからずや恋終りゆく
海のごとく男ごころ満たすかなしさを静かに見やり歩み去りし子
再びは見じとさけびしくちびるの乾むとする時のさびしさ

小枝子が妊娠した子供はそれから1年後の明治43年の1月に生まれ、4月に里子に出された先で亡くなります。

それをもって、牧水の恋愛は本当に終わったのです。しかし、牧水はそれまでの間に酒に溺れ、またいつでも死ねるように砒素を持ち歩いていたといいます。

そのあと、牧水は荒れた生活の中で罹った淋病の治療のために、長野県内の病院に入院。病気の苦痛は大きかったようですが、その間はむしろ小枝子のことどころではなかったでしょう。

海底(うなぞこ)に眼のなき魚(うを)の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり
さけのためわれ若うして死にもせば友よいかにかあはれならまし

牧水のためには療養をすることは良いことでした。酒を断ち歌会をしながら、体を休めました。

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり


上の作品からは次第に落ち着いていった様子もうかがえます。しかし、その1年半の乱酔時代は、後々まで影響を及ぼしたこととも思います。

牧水が早世したのも、あるいはそれ以来断ち難くなった酒のためであったのかもしれません。

 

園田小夜子の身の上

園田小夜子のことを調べると「複雑な」とだけ説明されているものが多く、これまではよくわからなかったのですが、詳しく書かれている資料が手に入りました。
かいつまんで記載します。

血縁が不明な父と継母

小夜子は明治17年生まれ、広島が出生地でした。小枝子の母は児玉カズ、児玉家に養子に入った児玉大介との間の子供として出生。

児玉カズ、そして大介共にその前にも結婚歴があり、前夫との離婚届けと同時に児玉大介との婚姻届けを提出したため、血縁上の穏当の父親が、大介なのか、それ以前のカズの夫なのかがはっきりしない。

父の児玉大介は、その後廃嫡して分家となり、その後園田キサの婿養子となったので、小枝子は大介の連れ子として、園田小枝子の園田姓になった。前述のように大介の子供かどうかはっきりしないが、さらに継母と暮らすようになった。

15歳で継母の子と結婚

そして、園田家の継母キサの長男と15歳の時に婚姻届けを提出。子供を16歳が最初の子として二人生んだが、父大介が死亡。小枝子自身が結核で療養施設に入ったのを機に、子供を置いたまま、継母の居る家を出た。

牧水に会ったのは、小夜子が自活をしようとしていたそのあとのことです。

明治という時代には、結婚というものが今とは違っていて、小枝子は親に決められた通りの人生を言われるがままに歩んできた。それが明治の女性のありようでした。

庸三を選んだ小枝子

牧水との結婚を承諾しなかったのは、まだ牧水がその時は学生でもあり、歌人という職業が、教育も受けられず文字が読めなかった小枝子には未知だったことがあるでしょう。
要するに、牧水は小枝子にとっては魅力や愛情を感じられる相手ではなかったのです。

同様に従弟の庸三も貧しかったにもかかわらず、牧水との別離の後、小枝子と入籍、小枝子は、園田家を離籍、正式に庸三と結婚しています。

また牧水は、文字も歌も解さない小枝子との結婚も悩んだようでもあるのですが、それはあるいは、牧水が誠実だったからともいえるかもしれません。

 

まとめ 牧水の歌に思うこと

牧水と小枝子との恋愛を振り返りながら、その順に歌を読んでみましたが、とにかく数が膨大で、よくも詠んだなと思います。

差し迫った心境の作品が多く、それを尽きることなく詠むということは、小枝子への情熱がこれほどまでに強かったということも驚きですが、歌人としての力量にも敬服せざるを得ません。

また、その一つ一つがあまりにも切々としており、相手が文字が読めない人でなければ、とても断れたものではない。読んでいて牧水がかわいそうでなりませんでした。

また、恋愛というより牧水にとって失恋ですから、自慢できることではない辛いことであるにもかかわらず、それをつぶさに詠むということも、できそうでなかなかできることではありません。

堂々と臆することなく自分の感じたところを表す、その態度は見習いたいものだと思います。

 

小枝子との恋愛を詠んだ『別離」は大変な評判になり、歌人若山牧水の名を世に知らしめるものとなりました。

才のある人は、どのようなことも、仮にそれが自分の弱点であろうとも、利点に変える力を持っているという、これも一つの証でありましょう。

 

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