瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 正岡子規  

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瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 正岡子規

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瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

正岡子規の代表作ともいわれる有名な短歌にわかりやすい現代語訳を付けました。

各歌の句切れや表現技法、文法の解説と、鑑賞のポイントを記します。

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瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

 

読み:かめにさす ふじのはなぶさ みじかければ たたみのうえに とどかざりけり

作者と出典

正岡子規

「竹乃里歌」「墨汁一滴」 初出は新聞「日本」明治34年

現代語訳

瓶に差した藤の花房が短いので畳の上に届かないでいることだよ

文法解説

・みじかければ・・・この「ば」は「もし短かったら」の意味ではなく、「順接の確定条件」で原因・理由を表す。「…ので。…から」

・とどかざりけり・・・「とどく+ざり(否定の助動詞)+けり(詠嘆の助動詞)」

けりは「のだなあ」と訳す


解説

明治34年作。初出は随筆「墨汁一滴」の中の一連7首の中の最初の歌。

歌の詞書

正岡子規自身が作歌の状況を下のように説明する詞書がある。

夕餉したため了りて仰向に寝ながら左の方を見れば 机の上に藤を活けたる いとよく水をあげて 花は今を盛りの有様なり。
艶(えん)にもうつくしきかな とひとりごちつつ そぞろに物語の昔などしぬばるるにつけて あやしくも歌心なん催されける。この道には 日頃うとくなりまさりたれば おぼつかなくも筆をとりて

の長い詞書のあとに10首が記された中の1首。

詞書の意味

上の詞書の大体の現代語訳です。

夕食の後にあおむけに寝ながら左の方を見れば、机の上に藤の花が活けてある。

よく水をあげて、今が花の盛りの様子、なんとも美しいものだ、と一人思いながら、物語にある昔のことなどを思い出していると、歌を読みたい心持が催された。

最近は疎くなってきていて、うまく運ぶかどうか疑わしいが筆をとって…

 

藤の花を見る作者の視点

歌の描写するところは、内容は机上の花瓶に活けた藤の房が垂れ下がりながら、畳にはふれない位置で止まっている、それを目に見える通りに写生した歌。

特殊なアングルだが、作者正岡子規は、結核のため歩くことも立つこともできなかったた。

子規は一日中、来る日も来る日も布団の上に寝て、その周辺に物を置きながら生活しており、その『病床六尺』から手の届くところが世界のすべてであった。

見たままを詠む「写生」

正岡子規の短歌は「写生」すなわち見たままを詠むということで、この歌もまた「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の」と同じように、観察がベースとなっている。

特に具体的なのが「短ければ」との言葉で、これが畳との距離感を具体的にとらえうる。

「とどかざりけり」の助動詞「けり」は詠嘆で、その距離の発見が強調されており、子規の見たポイントは、藤の花の先のとのわずかな空間であった。

この歌については、よく「この歌のどこに感動があるのかわからない」と言われるのだが、この歌で子規の表したかったのは、「艶(えん)にもうつくしきかな」のような花の美しさにあったのではないし、そのような形容も実際にあるわけではない。

また、子規が寝たきりであったので、そこに「哀れと感動がある」という人もいるが、一連の中にはその歌も含まれるが、この歌については違うように思う。

静物画の構図の把握

子規は病床で短歌や俳句を作るほかにもスケッチをしており、そこから短歌の「写生」との理念を生み出したのであるが、上の歌にはスケッチをする時のように、静物とさらに画の構図の把握があり、それがこの歌のすべてであると思う。

そして、そのような画の対象にするということそのものが、子規の感動であった。様々な角度から見てとらえること、それそのものが、子規の持つ、物の愛で方であったといえるかもしれない。

「みじかければ」の意味

藤の花は一般に長いものとされているが、この花房は短い。

おそらく、その場所に花を生けるために、介護を担っていた子規の母か妹かが、あえて短いものを選んだのであったのかもしれない。

その花瓶の花を画に描きとろうとするときに畳との間に空間がある。

スケッチするためにその距離感を子規は把握する。

それを言葉で表すときに、「畳との間に空間がある」ということを何と説明するかという時に、その理由として、ずばり物理的に「みじかければ」と表すことが、この歌の眼目であろう。

本当は藤の花はもう少し長くてもいいがこの藤は印象としても短いものであって、机と畳との距離と相対的にとらえても、それよりも「短い」。

畳に触れない、触れて花が使えてしまっては、花瓶の花としては成り立たないのでそうはなっていない。

見たままであり写生であり、「みじかければ」の端的で合理的な表現が、歌の中にあることがむしろ珍しいといえる。

この3句「みじかければ」は6文字で字余りなのであるが、「とどかない」を導くために子規はこの言葉を用いた。




鑑賞を深める

この歌には本歌があることが指摘されている。

この短歌の本歌

本歌は落合直文の下の歌、

小瓶(をがめ)をば机のうへに載せたれどまだまだ長ししら藤の花

また、「瓶にさす」の前年にも「百花の千花を糸につらぬける藤の花房長く垂れたり」他の作品があり、これらを習作的土台としてこの歌が生まれたと考えられる。

この短歌の後書

この短歌には下の後書も添えられている

おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日ごろ稀なる心やなりけり。をかしの春の一夜や

これらの詞書から察するに子規はこの作品には満足を感じていたようだ。

藤の二首目

同じ一連のもう一首は、

瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書(ふみ)の上に垂れたり

これも、藤の花が、どの位置にあり、画に描こうとすれば、どのような配置の静物画になるのかの、その画を言葉で写し取った一首であることは言うまでもないだろう。

詠まれているのは、花の美しさなどではなく、花がどこにどうあるかの見たまま、ただそれだけである。

つまり、瓶の藤の花は一つならず幾房かあって、一つはそれより前の歌の通り、畳の上に浮いており、ではもう一つはというと、本の束の上に触れるか触れないかくらいに垂れている。

7首のうちの最初の2首は、その把握から始まっている。

藤の短歌一連10首

この一連10首は以下の通り

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり

瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり

藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも

藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出いで写さんと思ふ

藤なみの花の紫絵にかかばこき紫にかくべかりけり

瓶かめにさす藤の花ぶさ花垂れて病やまひの牀とこに春暮れんとす

去年の春亀戸に藤を見しことを今藤を見て思ひいでつも

くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲きいでにけり

この藤は早く咲きたり亀井戸の藤咲かまくは十日とをかまり後のち

八入折やしほりの酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く

 

見る通り4、5首については、「紫の絵の具取り出いで写さんと思ふ」「こき紫にかくべかりけり」と作画の構想がそのまま歌に詠まれている。

つまり、「たたみのうえにとどかざりけり」「かさねし書の上に垂れたり」は、藤の花を作画するときに描くべき藤のありようを、短歌に写し取ったものである。

一連のあとがきは、

「おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり」

(病気が重いので穏やかでない日が多いのだが、小康状態にあるときの筆の遊びを楽しめるのは最近で稀なことだ)

スケッチは、短歌よりももっと長い時間がかかるかもしれず、筆を持たない時間にも歌は詠めるが、筆を持たずに画は進まない。

病気のため、絵を描くほどではなかったのかもしれないが、時間は夕飯の後であった。

つまり、絵を描くには、「瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れんとす」の通り、光が暗かったのである。

そして、実際にスケッチを始めていれば、作画の時にそうするべき「藤なみの花の紫絵にかかばこき紫にかくべかりけり」は歌には詠まれなかっただろう。

子規は「かかば」の通りに描かなかったのである。構図をとらえ、花の位置を決めて、次に紫の濃い絵の具を使う――それが、藤の花を描く時に子規のするべきことであったに違いない。

 

歌人のこの歌の解釈 

この歌の他の解釈には、どのようなものがあるでしょうか。

高野公彦氏の解釈

歌人の高野公彦氏は、最初の詞書が平安朝の言葉を真似ている節があり、『伊勢物語』に藤の花を題材にした段がある、子規はその物語の「その花の中に、あやしき藤の花ありけり。花のしなひ三尺六寸ばかりなむありける。それを題にて歌よむ。」を想起していたとしています。

三尺六寸は、およそ110㎝なので、それに比べると、今子規が目の前に見ている花の長さは「短い」。

それが「みじかければ」という感慨の背景にある。

そして、

平安貴族の雅びで華やかなくらしを思いやっているのです。作者・正岡子規はといえば、貧しい病床にある身です。それが、藤の長さの対比となって詠われています。
物語の昔に照らし合わせれば何ともわびしい自分であることよ、と苦笑いしながら作った歌と言えるのです。
(出典はhttp://maruchan.dokkoisho.com/tanka1/tanka1_01.html)

というのが、その解釈です。

佐佐木幸綱氏の解釈

歌人の佐佐木幸綱氏は

この歌が面白いか面白くないかは、作中の我の視点がどこにあるかに読書の心が行くかどうかにかかっている。

夕食の後、寝床に仰向けに寝ながら左方にある机の上に活けられた藤の花を見ている場面だという。

これを読めば垂れ下がった藤の花房の先端部分が、ちょうど枕の上の顔を左方に向けたその前に見える。

花房の前が畳に触れそうで触れない微妙な空間をすぐ目の前にして楽しんでいる心が、一首の主題であるということが分かる。  --『万葉集の〈われ〉』佐佐木幸綱著より

以上、正岡子規の「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」についてお伝えしました。

正岡子規の短歌代表作はこちらの記事に

正岡子規の短歌代表作10首 写生を提唱




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