「君死にたまふことなかれ」作者与謝野晶子の意味と現代語訳  

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「君死にたまふことなかれ」作者与謝野晶子の意味と現代語訳

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「君死にたまふことなかれ」は与謝野晶子の弟をうたう有名な詩です。

この詩は旅順攻囲軍の中にいた与謝野晶子自身の弟を思って書かれたものです。

「君死にたまふことなかれ」の詩の現代語訳と解説を提示します。

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「君死にたまふことなかれ」与謝野晶子

1904年8月19日  日露戦争の旅順攻囲戦が始まり、与謝野晶子は「君死にたまふことなかれ」と題する詩を書きました。

詩の副題は「旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて」というもので、旅順攻囲軍の中にいた弟に向かって呼び掛ける内容となっています。

 

「君死にたまふことなかれ」の意味と内容

 

「君死にたまふことなかれ」というのは、どのような内容の詩かまとめると、日露戦争に出征した弟に生きて帰ることを呼び掛ける内容です。

武器を持って人を殺せというのは、親の教えでも商家の教えでもない。天皇がそういうとも思われない。旅順が滅びてもよい、父を亡くしたばかり母の嘆き、残された新妻を思えば、自分ひとりの身ではないのがわかるだろう。弟よ、必ず死なないでいよ。

以下に、詩の全文と、現代語訳を提示します。

 

君死にたまふことなかれ 全文

「君死にたまふことなかれ」
(旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
すゑに生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親はやいばをにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四にじふしまでを育てしや。

さかいの街のあきびとの
老舗しにせを誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事なにごとぞ、
君は知らじな、あきびとの
いへの習ひに無きことを。

君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからはでまさね
かたみに人の血を流し、
けものみちに死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
おほみこころの深ければ、
もとより如何いかおぼされん。

ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君ちゝぎみ
おくれたまへる母君はゝぎみは、
歎きのなかに、いたましく、
我子わがこされ、いへり、
やすしと聞ける大御代おほみよ
母の白髪しらがは増さりゆく。

暖簾のれんのかげに伏して泣く
あえかに若き新妻にひづま
君忘るるや、思へるや。
十月とつきも添はで別れたる
少女をとめごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまたたれを頼むべき。
君死にたまふことなかれ。




 

「君死にたまふことなかれ」現代語訳

一段ずつ現代語訳と解説を記していきます。

1段目の意味と現代語訳

ああ、弟よ、あなたのために泣いています。
どうぞ死なないでいてください。
末っ子に生れたあなたなので、親は兄姉よりもかわいがっていますが、果たしてその親が、武器を持って人を殺せと教えたでしょうか。人を殺して自らも死ねと、24歳まで育てたでしょうか。

解説

「親は刃を握らせて/人を殺せと教へしや」「24 までを育てしや」の「や」は反語の助詞。

「…ただろうか…ではないだろう」の否定となるため、この部分は

「人を殺せと教えただろうか。そんなことはない」

「(人を殺せと)24歳になるまで育てたわけではない」

という意味です。

与謝野晶子の兄弟

与謝野晶子は与謝野家の三女で、弟は2歳下で男子では末子ですがその下に妹が2人います。

なお、弟の名前は鳳籌三郎(ほう ちゅうざぶろう)が幼名、その後、父の名前であった「宗七」を継いだものです。

与謝野晶子の旧姓も「鳳」とかいて同じく「ほう」と読み与謝野は結婚後の姓です。

ちなみに晶子の名前の本名は「志(し)よう」が名前で、晶子は後の筆名です。

2段目の意味と現代語訳

続く2段目の意味です。

堺の商人として老舗を守る主人として、家の名前を継ぐあなた、どうぞ死なないでください。

あなたは知らないでしょうが、旅順の城はほろんだとしても、商人の家の教えに戦いに死ねなどということはないのです。

解説

兵士と、元々の職業である「商人」とを対比されている2段目。

鳳家は、堺にあった和菓子屋の老舗です。

「旅順」とは

「旅順」はこの時の戦争の舞台であった中国の地名で、その実在の地名を出しているので当然物議をかもしたと思われます。

与謝野晶子の弟は当初「後備第四旅団後備第八聯隊」で轄重輸卒として従軍、この部隊は旅順攻略のための第三軍に加えられたということです。

3段目の意味と現代語訳

3段目は、大胆にも天皇を出して下のように続けています。

天皇は戦いに自らはおいでになさらない。互いに血を流して、けだものの道に死ねという、死ぬことが人の名誉なのだということは、元より御心の深い方であれば、そのように思ったりするでしょうか。

解説

「すめらみこと」というのは天皇の古い敬称の呼び名。

戦争は「天皇」の命令によるものですが、天皇の言質を取沙汰するというのは、大変勇気のあることですが、この点も大きな問題とみなされました。

4段目の意味と現代語訳

4段目では、弟に直接呼びかける内容となっています

弟よ、戦いに死んだりしないでください。

秋の父上の死後残された母は、痛ましくも嘆かれて、今度は子どもを戦にやって自らが家を守り、安泰のはずのこの時代にも白髪が増えていくのです。

解説

父が亡くなったは9月で、10月に弟は家督を継ぎ、父の名の「宗吉」を継いだようです。

この団では、父が亡くなった後の母の悲しみを引き合いに出しています。

家族の結びつきと、息子を戦争に出す母の悲しみが焦点です。

5段目の意味と現代語訳

弟は結婚後まもなくの招集であり、作者の嘆きはここに会ったと思われます。

暖簾の陰にしゃがんで泣いている、年若い新妻をあなたは忘れたのですか、それとも思っているのですか。

十か月にもならないで別れてしまった、妻の心を思ってごらんなさい。

この世一人のあなたではないのです。

ああ、この胸の嘆きを誰に訴えたらいいのか、弟よ、あなたは死んではなりませんよ。

解説

今度は家族の中の妻を登場させます。

詩の内容からは、弟が10カ月前に結婚しながら出征したことがわかりますが、解説によるとその際妻は身ごもってもいたそうです。

「ああまたを頼むべき」には、誰かの加勢をもって、弟の死を止めてほしいという意味ですが、「母」「妻」として、弟を引き留めようとする誰かを探しているようです。

なお、籌三郎こと、後の宗七は日露戦争から帰還し、1944年(昭和19年)まで永らえました。

この悲痛な詩を詠んだ後でそれを聞くと、心が慰められる思いがします。

 

「君死にたまふことなかれ」の成立まで

『君死にたまふことなかれ』の詩が中国に派兵された弟を思って書かれたものだということは上に説明しました。

もう一つ、このモチーフを作品として成立させる上で、どのような背景やテキストがあったのかを資料として記しておきます。

与謝野鉄幹が詠んだ反戦の短歌

一つは明治33年に与謝野鉄幹が詠んだ一連の歌です。

ひんがしに愚かなる国ひとつあり いくさに勝ちて世に侮らる

大君の御民(みたみ)を死ににやる世なり 他人(ひと)のひきゐるいくさのなかへ

創(て)を負ひて担架のうへに子は笑みぬ 嗚呼わざはひや人を殺す道
-明治33年4月『明星』10月号掲載

この歌より5年前の日清戦争と、直前の義和団の乱、別名北清事変を詠んだものです。

義和団鎮圧のためにイギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアと日本の8か国が派兵しました。

鉄幹はそれらを一首目で痛烈に皮肉った上で、「死ににやる」「人を殺す」と反戦の思想をはっきりと主張していることが見て取れます。

その他の鉄幹の詩にも同様の思想がうかがえるものがあり、これら鉄幹の先行する作品は、やはり『君死にたまふことなかれ』に受け継がれたといえるでしょう。

トルストイの反戦の論文

もう一つ、与謝野晶子に影響を与えたと思われるのは、平民新聞に掲載されたトルストイの論文です。

平民新聞は(1904年8月7日、幸徳秋水他が、トルストイがロンドン・タイムズ1904年6月27日に寄稿した非戦論「悔い改めよ」を訳して掲載しました。

この、「トルストイ翁の日露戦争論」は大きな反響を呼びました。

社会問題にも関心を持っていた与謝野晶子も当然それを読んだと思われます。

一部分をご紹介すると

「戦争はまたも起こってしまった。誰にも無用で無益な困難が再来し、偽り、欺きが横行し、そして人類の愚かさ、残忍さを露呈した」

とする反戦の思想を説いています。

ロンドンタイムズに寄稿されたこの文章は、単にトルストイの考えを示しただけではなく、世界に向けて戦争を止めようと呼びかける内容です。

特にトルストイの主張は単に争いが悪というだけでなく、国家が「人類・同胞同士の殺戮という罪悪を徳行として認める」ことをを改めよという呼びかけにありました。

なお、この論文が掲載された8月7日が、与謝野晶子の詩の前書きにある「旅順包囲」の日です。

幸徳秋水の平民新聞の文章

他にも平民新聞には、トルストイの上の論文を翻訳した幸徳秋水の「吾人は飽くまで戦争を非認す」などの文章も載せられていました。

諸君今や人を殺さんが為めに行く、否ざれば即ち人に殺されんが為めに行く、(中略)吾人諸君と不幸にして此悪制度の下に生るるを如何せん、行矣、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。
嗚呼従軍の兵士、諸君の田畆は荒れん、諸君の業務は廃せられん、諸君の老親は独り門に倚り、諸君の妻兒は空しく飢に泣く、而して諸君の生還は元より期す可らざる也、而も諸君は行かざる可らず、行矣、行て諸君の職分とする所を尽せ、一個の機械となって動け、然れども露国の兵士も又人の子也、人の夫也、人の父也、諸君の同胞なる人類也、之を思うて慎んで彼等に対して残暴の行あること勿れ。 「兵士を送る」(1904年 2月)

与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』成立の背景には、このような作品や文章を読んだことが大きく影響したと思われます。

 

「君死にたまふことなかれ」への批判

与謝野晶子がこの詩を発表したのは、1904年(明治37年)9月の『明星』誌で、旅順包囲の1か月後になりますが、活字になるまでに時間がかかりますのでニュースを知ってすぐに記されたものと考えられます。

この詩は、当時

「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」(大町桂月・歌人)

と批判されます。

「乱臣なり賊子なり、…罪人なり」とまで言い切っているのですから、大きな指弾を受けたといえます。

それにしても、「すめらみこと」や「旅順」と実在の事物を取り上げて、たった一人で弟を守るというより説得しようとするスタンスでこの詩を書きあげた与謝野晶子はよほど強い人だったといえます。

夫与謝野鉄幹の後ろ盾があってのことだとも思われますが、晶子の物おじしない性格もさながら、やはり弟を守ろうとする姉としての強い願いが感じられるのです。

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