忠臣蔵 浅野内匠頭と赤穂浪士の辞世の句の短歌【日めくり短歌】  

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忠臣蔵 浅野内匠頭と赤穂浪士の辞世の句の短歌【日めくり短歌】

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忠臣蔵の赤穂浪士の辞世の句、短歌は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の詠んだ「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」が有名です。

きょうの日めくり短歌は、浅野内匠頭の辞世の句と赤穂浪士の長、大石内蔵助と大石主税の辞世の短歌をご紹介します。

忠臣蔵討ち入りの日

きょう、12月14日は、忠臣蔵の討ち入りの日です。

寒い時期の討ち入りで、雪の降る日であったことは、映画などでも伝えられていますね。

忠臣蔵とは

『忠臣蔵』は、 人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称です。

「赤穂浪士の討ち入り」の事件とその前後をストーリー化し、舞台劇として伝えられたものが『忠臣蔵』です。

赤穂浪士の討ち入りとは

赤穂藩の侍である浪士たち47人が連帯して討ち入ったのは、主君の仇である吉良上野介(きらこうづけのすけ)の屋敷。

吉良上野介とのトラブルで切腹をさせられた主君、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の仇討ちをするためでした。

この場合の仇討ちは、吉良の首を取ること、つまり殺傷ですので、それを行うと、屋敷に討ち入った47人全員が、死罪、切腹となる可能性がありました。

死を覚悟して主君の仇を討つというところが、江戸庶民の胸を打つところがあったとみえて、歌舞伎や芝居、公団などで演目は人気となり、日本人好みのストーリーが今に至るまで伝えられています。

 

浅野内匠頭の辞世の句

吉良上野介と争った浅野内匠頭は、赤穂藩の藩主でしたが、江戸城松の廊下で、吉良上野介を突然刀で切りつけるという振る舞いに出ました。刃傷沙汰の理由は、いわゆる吉良のイジメのように映画では描かれています。

そのために、浅野内匠頭は切腹を命じられ、その時に詠んだのが下の辞世の句です。

 

風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん

意味は、

風に舞い散る桜のよりもずっと、若くして断たれるこの命の心残りをどうしたらいいものか

というもの。

浅野内匠頭の年齢は、このとき33歳でした。

浅野内匠頭の、口惜しさが伝わる短歌なのです。

これを詠んだ家来たち四十七人は、主君の無念を察して仇討ちを決心したのでしょう。

 

大石内蔵助の詠んだ辞世の句

それに比べて四十七士のリーダーである、大石内蔵助の詠んだ辞世の句は下の通り

あら楽し思いははるる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし

作者:大石内蔵助

歌の意味

おお、なんと楽しい事よ。主君の仇を討つ悲願の思いは晴れて、身は死んでも悔いはなく、現世浮世の月にかかる雲もないような気分であるよ

 

冒頭の「あら」は間投詞で「ああ」「おお」の意味ですが、初句冒頭にこれを置くことで、誠に軽やかです。

そして、曇りの全くない心の晴れ晴れとした、ただそれのみを詠んでいます。

 

あふ時は語りつくすと思へども別れとなれば残る言の葉

作者:大石主税 良金 (おおいしちから)

歌の意味

逢っているその時は、語り尽くしたと思っているのですが、いざ別れとなるとたくさんの言い損ねた言葉が胸にまだ残っているようです

大石主税は、内蔵助の息子で、若干16歳。

歌の内容からは、思い人がいたのかと悲しくも思われますが、この歌は、主税(ちから)の母「りく」との場面を詠んだものとされているようです。

16歳で仇討ちに命を散らすとは、哀れにも思えますが、それが当時の武士道というものであったのでしょうね。

父の内蔵助よりも、ただ一人残る母を思いやるような辞世の句となっています。

若い柔らかい調べと内容が胸を打ちます。

きょうの日めくり短歌は、忠臣蔵の討ち入りの日にちなみ、赤穂浪士である大石内蔵助とその息子主税の辞世の句の短歌をご紹介しました。

それではまた!

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