堀辰雄の代表作の小説『風立ちぬ』の詩文「風立ちぬ いざ生きめやも」の意味は「生きられはしない」であり、「いざ生きめやも」は堀辰雄の誤訳といわれています。
「いざ生きめやも」の「やも」部分の反語表現について解説します。
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堀辰雄について
堀辰雄は1904年(明治37年)生まれ。芥川の自殺に衝撃を受け、卒業論文は『芥川龍之介論』でした。
その後、フランス文学の心理主義の手法を用いたスタイルの芥川の死をモチーフにした『聖家族』(1930年)を発表しますが、結核で喀血、その後、喀血し長野県の療養所に入ることになります。
堀辰雄『風立ちぬ』
『風立ちぬ』は、その療養所での体験を元にした小説です。
あらすじは、軽井沢の療養所で婚約者を失うという悲しい経験が元になっていますが、純粋な愛と生命の美しさを描いた内容が反響を呼び、堀辰雄の代表作となっています。
近年では映画かもされて、死後なお、堀辰雄の名前が現代の人々にも知られるところとなっています。
『風立ちぬ』の詩文「いざ生きめやも」
『風立ちぬ』というのは、美しいタイトルですが、「風立ちぬ」の巻頭には、ポール・ヴァレリーの詩の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」が引かれており、この「風立ちぬ」「いざ生きめやも」は、本文を読むと、詩の翻訳であることがわかるようになっています。
この詩文は、「風立ちぬ、いざ生きめやも」というように、タイトルの副題のように併記されることがたいへん多いので、本を読んだ人だけでなく、本の案内においても目にした人が多いでしょう。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」は原語では一つの文
というのも、ヴァレリーの詩では元々「,」でつながれていますので、「風立ちぬ、いざ生きめやも」は一つの文として考えられるからです。
堀辰雄の小説題名『風立ちぬ』は原文では、一つのし分の前半のみということになります。
「風立ちぬ」「いざ生きめやも」は文語
「風立ちぬ」「いざ生きめやも」この訳分は、どちらも文語という古い時代の言葉で書かれています。
たとえば、和歌の「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも」(山上憶良)と同じ、万葉の時代から受け継がれている古語です。
「風立ちぬ」の意味と現代語訳
「風立ちぬ」の現代語訳は、「風が立った」「風が起こった」との意味です。
「ぬ」というのは、現代語の「た」の意味の、完了の助動詞です。
そして、「いざ生きめやも」もこちらも同じ文語です。
つまり、「風立ちぬ」「いざ生きめやも」はどちらも同じ時代スタイルの言葉です。
「いざ生きめやも」は誤訳
ただし、この「いざ生きめやも」は誤訳であるとの指摘が出版後に出るようになりました。
堀辰雄は、これを知らないで使っていたと推測されます。結論を言うと、誤訳であり、誤りです。
「il faut tenter de vivre」の訳
元々のフランス語の il faut tenter de vivre というのは、「il faut 」が「~しなければならない」の意味です。
tenterが「~を試みる」。de vivreは英語なら、「to live」にあたります。
「風立ちぬ」のDVDの英語訳では、これが
we must try to live.
となっています。
直訳すれば、これは「私たちは生きなければならない」であり、簡潔でわかりやすい意味です。
しかし、堀辰雄の訳は「いざ生きめやも」ということで、これは、実は、「生きられはしない」との意味なのです。
「生きめやも」は反語の表現
文法の解説をすると、この場合の「生きめ」の「め」は、上の「別れめ」と同じ、未来推量・意志の助動詞の「む」の已然形「め」です。
しかしそのあとの「や・も」は、反語の「やも」であり、その場合の意味は「生きはしない」という意味になります。
「やも」は「反語」の連語
このような表現を「反語」といいます。
辞書の記載だと
「やも」は連語で「…かなあ、いや、…ない」のように、詠嘆の意をこめつつ反語の意を表す。
一文で表すと、「生きめやも」の意味は「生きられようか」ということになります。
したがって、「生きめやも」の意味は、「生きられるだろうか・・・いや、生きられはしない」という意味になるのです。
もちろん、サナトリウムが舞台の小説であり、その内容からも、「さあ、生きよう」という方が適切なのは言うまでもありません。
関連記事:
反語を使った表現 古文・古典短歌の文法解説
「いざ生きめやも」の正しい訳は
それでは実際にヴァレリー詩集を翻訳した場合の訳はどうなっているのかを見てみましょう
井沢義雄の訳 「生くるべく努めざらめや」
ヴァレリー詩集を翻訳した井沢義雄訳の詩集が出ていますが、それによる訳は以下のとおりです。
風ぞ立つ!・・・・・・さればわれまた生くるべく努めざらめや
「やも」ではなく、「ざらめやも」とするのが一つの正しい翻訳の文としてあげられます。
村松剛の訳「生きねばならぬ、試みねば」
他にも、村松剛訳だと
「風が立つ・・・・・・生きねばならぬ、試みねば」
となっています。
これらを紹介した、歌人の宮地伸一氏は、反語の形にするなら、「生きめやも」ではなく、「生きざらめやも」としなければ、「日本語としておかしい」と歌言葉雑記 (短歌新聞社選書)において述べています。
なぜ堀辰雄は誤訳したかの理由
それでは、なぜ、この部分を堀辰雄は”誤訳”したのでしょうか。
理由を推測すると、古典や古語の文法は、その時代にも多く使われていた日常語ではないため、誤りが生じやすいということで、これらの誤用は文語を用いる歌人にも少なからず見かけます。
堀辰雄は、題名と副題のどちらをも一つの詩文の訳として、文語で統一の上併記したのですが、用法をよく確認しないで使ったために、副題の方に誤りが生じてしまったと思われます。
たとえば、「仰げば尊し」の歌詞、「今こそわかれめ」の「め」が助動詞だということを知っている人はいませんし、「わかれめ」が「わかれよう」の意味だと言われても、現代の私たちはピンときません。
堀辰雄同じで、「やも」の反語を正確には理解していなかったということになります。現代の古語学習者が陥りやすい誤りに、当時の人も常に面していたということです。
なので、ここは特に堀辰雄をとがめずに、「さあ、生きよう」という意味でとっておけばよろしいと思います。
ただし、古文や短歌の学習者には、堀辰雄の「生きめやも」は、誤りだということは認識しておいていただきたいところです。
もちろんこの誤りは副題のみの一部のことで、それによって作品そのものが損なわれることはないと思われます。
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