与謝野晶子は、歌誌『明星』の主催者であった与謝野鉄幹によって見いだされ、歌人の地位を築きました。
その後の与謝野鉄幹と晶子の生活は「二人三脚」であったと言われています。
きょうの日めくり短歌は、与謝野晶子の命日、白桜忌にちなみ、与謝野夫妻の生活の様子とエピソードをお伝えします。
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与謝野晶子と与謝野鉄幹
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与謝野晶子は、与謝野鉄幹の主宰する歌誌『明星』に参加。歌集『みだれ髪』で一躍有名な歌人となりました。
与謝野鉄幹は実は妻がいましたが、離別後に与謝野晶子と結婚しました。
与謝野晶子とは、今の言葉でいうなら、不倫の関係であったわけです。
三角関係の末に鉄幹と結ばれた晶子
その上、与謝野鉄幹は同じく『明星』の歌人山川登美子とも交際、三角関係において、与謝野晶子が鉄幹を勝ち取った形になります。
山川登美子は、
それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ
という歌を詠んでいます。
「紅き花」はすなわち鉄幹のことで、「友」が与謝野晶子でしょう。二人は、恋の上でもライバルであり、歌の上でも良き歌友であったといえますが、上の歌は恋に破れた悲傷の気持ちをうたっています。
与謝野鉄幹の女性問題
そのような鉄幹でしたので、女性関係は絶えなかったようですが、晶子に離婚する気はなく、11人の子どもをもうけています。
「晶子にすれば鉄幹は二人三脚の相手でした」(与謝野晶子記念館学芸員)
と与謝野晶子記念館学芸員の森下秋穂氏のコメントが「天声人語」にある通りです。
晶子自身の歌は
二人にて常世(とこよ)の春を作れりとわれなほ半(なかば)思はるるかな
と詠んでおり、「二人にて」が鉄幹との絆を物語ります。そして、短歌に生きる二人の「常世の春」とは、なんとも美しい言葉です。
しかし、晶子にとって情熱的な恋愛の末に結ばれた鉄幹ですので、心中はどのようなものだったか。
短歌を見る限りでは、夫の浮気に対する懊悩が表れた歌は見られません。
子どもが12人(死別あり)次々に生まれたので、育児に大変でそれどころではなかったのかもしれませんが、それがまた晶子のすごいところではなかったかとも思います。
パリ旅行に出かけた鉄幹と晶子
与謝野晶子が生涯に残した短歌は6万首。斎藤茂吉が1万8千首と言われていますので、比較すれば、膨大な数であることがわかります。
その理由の一端は、与謝野鉄幹の不振にあります。
主催していた『明星』は、1900年の刊行の8年後の1908年に廃刊。
一世を風靡した『明星』でしたが、その後の与謝野鉄幹の仕事はふるわなくなります。
2人はフランスのパリ旅行に出かけたのは有名ですが、先に出かけたのが鉄幹でしたので、鉄幹主導かというとそうではなかったそうです。
つまり、これは晶子の計らいで、鉄幹の作歌の上でも仕事の上でも何らかの刺激になると考えたようですし、当然、渡航の資金も晶子が調達したのです。
その時の有名な歌が
ああ阜月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟
この歌の解説は
与謝野鉄幹の不振
パリ旅行以後の晶子の作品は多く伝わっていますが、鉄幹は不振から回復せず、徐々に晶子の手伝いをする位置に回ります。
まあ、これも気持ちがわからないこともなく、与謝野晶子の歌を見ていれば、とてもこんな風には読めないとたいていの人が思うでしょうし、その上、常時その仕事ぶりを見せられていれば、「不振」に陥るのも当然とも言えます。
後年は、鉄幹の方が子どもの世話や、晶子の手紙の代筆、資料を取り寄せて伝えるなどサポートやマネージャー、プロデューサーのような位置に回ったようです。
鉄幹の立場としては、天才と言っていい晶子の夫でいることは、大変な事であったのは間違いありませんが、それが逆に晶子には功を奏した思われます。
収入も乏しい夫の代わりに、歌を詠み続けたからこそ、6万首の歌が残ったともいえるでしょう。
生活のためにやむを得ず多作となったのですが、それでつぶれなかったところも、晶子の才であったのも間違いありません。
当時、まだまだ女性の地位が低かった時代に、文筆一本の専門歌人として、11人の子どもを育て上げられたというのは、素晴らしいことなのです。
与謝野晶子について
与謝野晶子(よさのあきこ)1878~1942年
近代歌壇を代表する歌人。大阪生、22歳で上京。大阪生。「明星」の主宰者与謝野鉄幹と結婚。『みだれ髪』を刊行。積極的な人間性賛美の声を艶麗大胆に歌い、「明星」の浪漫主義短歌の指標となる。源氏物語の現代語訳もある。
きょうの日めくり短歌は白桜忌にちなみ、与謝野晶子と鉄幹の歩みをお伝えしました。
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