夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ 種田山頭火 句切れと表現技法  

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夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ 種田山頭火 句切れと表現技法

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夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ 種田山頭火の代表作俳句の解説・鑑賞を記します。

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夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ

読み:ゆうだちや おじぞうさんも わたしも ずぶぬれ

作者と出典:

種田山頭火

現代語訳

夕立が降ってきたなあ。お地蔵さんも私もすっかり濡れてしまった

句切れと切れ字

初句切れ

切れ字「や」

季語

自由律俳句だが 「夕立(ゆうだち)」は夏の季語

表現技法

「お地蔵さん」「わたしも」「ずぶぬれ」は、自由律俳句の特徴の一つの口語的な用法

形式

無季自由律(自由律俳句)

五七五の定型によらない字数を自由に設定する俳句の形式

自由律俳句とは

自由律俳句(じゆうりつはいく)とは、五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。季題にとらわれず、感情の自由な律動(内在律・自然律などとも言われる)を表現することに重きが置かれる。文語や「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いず、口語で作られることが多いのも特徴―wikipedia

 
 

解説

放浪の俳人として知られる、種田山頭火の旅先の俳句。

この俳句の背景

山頭火は修行をする僧侶、雲水の格好をして、全国を放浪、行脚、身の回りの最低限の所持品しか持たないため、おそらく着替えも持っていなかった。

この句の情景は想像になるが、雨宿りをする場所もない山道を歩いているときに、運悪く夕立に出逢う。

物陰があれば身を寄せるが、雨に濡れるままにするほかはない。

わずかに雨を除けるに役に立つものと言えば、雲水のかぶる簡易な笠のみ。

雨が弱まって歩き出すと、道端の地蔵も全身がずぶ濡れになっている。

着替えを持たない自分、また、雨傘も屋根も持たない自分と、地蔵とを同一視して、「お地蔵さんもわたしも」という句がふと頭に浮かぶ。

「お地蔵さん」に見るこの句の作者の思いと感動

山の中には誰もいない。雨を嘆く相手も、分かち合う相手もいない、常に孤独な行程を続ける作者山頭火は、「地蔵も私と同じように濡れている」と思うことで、わずかに孤独が癒される思いがしたのであったかもしれない。

「お地蔵さん」という親近感のあふれる言葉は、自分と同じ「濡れている」という共通項を元に、自分以外の擬人化された”もの”への呼びかけともなっている。

作者にとっては、道に見るものがすべて、「友」というべきものだった。

世間に自分の場所がなく放浪の旅に出た身にとっては、その過酷な環境こそ作者が心を許せる居場所であったのかもしれない。

私自身のこの俳句の感想

「お地蔵さん」という言葉が俳句にあるのが意外でした。簡単な言葉で身近な物事でも、俳句にできるのだとわかりました。

作者種田山頭火について

種田山頭火は1882年(明治15年)12月3日、山口県防府市生まれ。

尾崎放哉と並ぶ、自由律俳句の俳人です。

大地主・種田家の長男として生まれますが、11歳の頃の母が投身自殺。

早稲田大学に入学、家業の酒造業が失敗。

その後は、正業にはつかず寺男となるなどし、雲水姿で放浪生活をして句を詠んだ。

その数は、生涯で8万句を詠んだといわれている。

種田山頭火の有名な俳句

まつすぐな道でさみしい

ほろほろほろびゆくわたくしの秋

うしろすがたのしぐれてゆくか

どうしようもない私が歩いている

生まれた家はあとかたもないほうたる

また見ることもない山が遠ざかる

鉄鉢の中へも霰

おちついて死ねそうな草萌ゆる




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