松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く 正岡子規  

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松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く 正岡子規

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松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く 正岡子規の代表作ともいわれる有名な短歌にわかりやすい現代語訳を付けました。

歌の句切れや表現技法、文法の解説と、鑑賞のポイントを記します。

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松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く の解説

読み:まつのはの はごとにむすぶ しらつゆの おきてはこぼれ こぼれてやおく

作者と出典

正岡子規 『墨汁一滴』『竹乃里歌』 初出1900年

松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置くの意味

現代語訳は

庭の松の葉の葉ごとに、白露が宿ったかと思うとこぼれ、こぼれたかと思うとまた宿る

 

句切れ

句切れなし

表現技法

  • 反復

文法と語句の解説

  • 結ぶ・・・露が自然にたまるとの意味
  • 置く・・・露の水の玉が葉の上にある様子

短歌の背景

正岡子規は結核の脊椎カリエスという病気で歩行がかなわず、重病であったが入院はせずに家で横になったまま毎日を過ごしていた。

植物をスケッチするのが楽しみであったため、門人や家人が寝たまま眺められるように、庭には多くの植物が植えられ鑑賞が可能なようになっていた。

また、窓には当時めずらしかったガラスが調達され入れられていた。

ガラス戸のくもり拭へばあきらかに寝ながら見ゆる山吹の花

の歌がその情景を伝えている。

 

松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置くの鑑賞

「五月二十一日朝 雨中庭前の松を見て作る」の詞書(ことばがき)のある十首中の二首目。

正岡子規の提唱する写生の技法に沿った歌で、単なる情景の描写にとどまらず、自然を興味を持って観察をしていたことがうかがえる。

歌の白露は、自然発生する露と理解してもいいが、実際には雨のしずくであったことがわかる。

短歌のポイント

「松の葉の葉毎に」は、松の細い葉の一本一本に露の玉が宿っているという意味で、松葉は細く数が多いものであるが、その葉一つずつに露が宿るというのは、松全体にといった場合と比べて観察が細かい。

「葉毎に」はその観察を表す大切な言葉であるだろう。

「こぼれては置く」の連続性

もう一つのポイントは下句の「置きてはこぼれこぼれては置く」の部分にある。

雨が注いで、それまでの露が下に落ち、また水のしずくが葉に宿る。

「置きてはこぼれこぼれては置く」は、松の葉に起こっているその途切れのない繰り返しを伝える部分である。

無限に見える繰り返しの中に松が立っているというのは不思議に厳かな情景であり、それを無心に見つめている作者の心の静けさもうかがえる。

「こぼれては置く」の下句には、ダイナミズムと時間の経過が含まれている。

露の動きは生き生きとして美しく、まるで命を持つもののようにとらえられている。

正岡子規は病中であったため、けして平静に眺めているとは言えず、しかしながらこのような観察に心を傾けている時には、痛みやつらさを免れることができた。

仰臥するだけの自分に比して、外の風の中にある松とそれを取り巻く自然、そしてこぼれては置く露に、ほのかな再生の望みもうかがえる。

「墨汁一滴」より

なお「墨汁一滴」にはこの歌を詠んで後に書かれた下の文章がある。

下線を読むと、子規はこの歌を新しい発見と考えていたことがわかる。

(略)「松葉の露」といふ趣向と「桜花の露」といふ趣向とを同じやうに見られたるは口惜し。(中略)余が去夏松葉の露の歌十首をものしたるは古人の見つけざりし場所、あるいは見つけても歌化せざりし場所を見つけ得たる者として誇りしなり。もし花の露ならば古歌にも多くあり、また旧派の歌人も自称新派の歌人も皆喜んで取る所の趣向にして陳腐中の陳腐、厭味中の厭味なる者なり。
(四月二十六日)

 

また、下の部分には、客観と主観の違いについて詳しくあげている。

試みに思へ「松葉の露」といへばたちどころに松葉に露のたまる光景を目に見れども「花の露」とばかりにては花は目に見えて露は目に見えずただ心の中にて露を思ひやるなり。是(ここ)においてか松葉の露は全く客観的となり、花の露は半ば主観的となり、両者その趣を異にす。しかるに花の露を形容するに、松葉の露を形容するが如き客観的形容を用ゐたりとて実際の感は起らぬ事論を俟またず。例すれば「花に置く露の玉」といひても花の露は見えぬ故玉といふ感は起らず。「花の白露」といひても色の白は実際見えぬ故やはり主観的に思ひやらざるべからず。風が花を揺うごかして露の散る時、そのほか露の散る時は始めて露の見ゆる心地すれど、それも露の見ゆるにはあらでむしろ露が物の上に落つる音を聞きて知る位の事ならん。音なればこれも普通の客観的の者ならざるはいふまでもなし。古いにしえの歌よみは固もとより咎むるにも直あたらず。今の歌よみにしてこれほどに客観と主観との区別ある両種の露を同じやうに見られたる事かへすがへすも口惜し。(四月二十六日)

正岡子規が、客観と主観、ひいては写生をどのように考えていたかの参考になるだろう。

 

一連の歌

一連の歌を参考にあげておく。

玉松の松の葉每に置く露のまねくこぼれて雨ふりしきる

松の葉の葉每に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く

松の葉の葉さきを細み置く露のたまりもあへず白玉散るも

庭中の松の葉におく白露の今か落ちんと見れども落ちず

松の葉の葉なみにぬける白露はあこが腕輪の玉にかも似る

松の葉の細き葉每に置く露の千露もゆらに玉もこぼれず

 

正岡子規の短歌代表作はこちらの記事に

正岡子規の短歌代表作10首 写生を提唱




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