大口玲子(りょうこ)の第二歌集「ひたかみ」を読んだ。
この歌集で取り上げられることの多いのは、震災前の原発を詠んだ「神のパズル」の章だと思うが、ここでは歌集の最初の方から、恋愛と性愛の歌を取り上げてみます。
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大口玲子の短歌
「恋愛と性愛の短歌」と並置してみたものの、恋愛と性愛と、この二つは心情的にも、また時代に伴う男女の関係の変化もあって、昔の短歌のように分けることはできなくなっているのかもしれない。
漕ぎ出づる櫂まだあるか夕暮れに船を浮かべて待つひとがいる
喩で述べられているが、漕ぎ出る先に海があるとすると、それはエロスの海なのだろう。
その時の「待つ」は、単なる「待つ」とは少し違う。
小刻みにチェロはその向きを変へられて奏者より深き恍惚にゐる
この歌集で取り上げられる筆頭の歌。
もっとも、歌集前半では、この歌が作為的に見えるほど、対象を詠んだものでなく、作者自身を詠んだ私小説的な歌が圧倒的に多い。
雨後の空指さす指のまっすぐが不鮮明なる虹をたどれり
「まっすぐに」ではなく、「まっすぐが」となっていて、文語で詠んでいるのだけれども、その不完全さに、偶発的な話し言葉のような印象がある。
あねおとうとのように一日を過ごせども心寄り添ふときけものめく
日曜は教会へゆく君のため水笛を吹く少女の居たり
パートナーはクリスチャンであるらしい。
父母と抱き合ひ泣くといふ行為せず今までも多分これからも
人生をからすみのように味はへと言ひくれし男夏に死すべし
なぜ夏なのか私にはわからないのだが、鋭さがいい。
びっしりと雨滴を溜めて曇天を細かく分くるブナの葉先は
草間弥生の画を思い出す。あの水玉の。
「夜を犯せば」より
同じ歌集のこの章より引く。
立秋を過ぎて月なき夜の底ひ人は静かに錨を下す
暗闇を沖へ沖へとひかれゆきわれの港に濡れそぼちをり
鳴りやんで君の体が帰りゆく写真の奥にかがやけるみづ
やはり喩による性愛の歌だが、まだおとなしい。
希死願望やみがたき夜に聞きをればまこと死に近き男の鼾
ひとは大方ひとを閉ぢたり朝顔の莟わづかにほぐるるころを
「ゲルニカの木のもとで」より
このベッド危険なり。ゆうべ牛殺し、蛍殺しの君が近づく
樹の空洞(うろ)に振り込んで来る雨のような人と思へり衿をひらけば
ロマネスクにて描かれたる<神の手>がわれの体をくまなく撫づる
君という草叢に蛍何匹も灯らせてまだ苦しかりしを
唇に含まれて潰さるるときはとおくパレルモの葡萄が匂ふ
闘牛士が仕留めの剣を刺すごとくわれの野生の刺さるる角度
栗の木のカスタネットのトレモロのやうな震への走る体か
わが体躯すべてを君のものとしてのぼりつめゆく時にし眩む
幾たびものぼりつめたる階段の螺旋再び押し上げられて
完全に君が出でゆくまでをわが肉体に<ボレロ>鳴り響きをり
死に瀕する女ゐてまた牛馬ゐて無彩色なり遠き『ゲルニカ』
性愛とその行為は、作者の中で「ゲルニカ」のイメージとつながっている。またこういう歌は意識をして詠もうと思わなくては詠めないものだとも気づく。
元になるのは具体的な行為の一つ一つなのだが、「ロマネスク」や「蛍」「パレルモの葡萄」「ボレロ」の言葉とその修辞がこれらの歌を成り立たせている。
題材となるもの
不思議なのだが、このような自分自身を対象化する視点が、「神のパズル」においては、原発というものに向けられている。
題材は違っても、その点は同じなのだろう。
国境を越えて放射性物質がやってくる冬、耳をすませば
学校で習わぬ単位、シーベルト、ラド、レム、グレイ、キュリー、レントゲン
流れざる北上川の水のなか燃料棒は神のごと立つ
原発から二十キロ弱のわが家かな帰りきて灯を消して眠りにつけり
他にわかったことは、作者には希死念慮を伴う精神的な不調があること、夫は新聞記者、ご自分は日本語教師であるか、その経験があることなど。
雪原にそそぐ光よ家中の刃物を隠し夫出勤す
夫はわれをわれの短歌で確かむと知りつつわれは放埓に詠む
泣くわれをじつと見てゐる男あり非の打ちどころなき夫として
職業を持つ女性は今の世ではそれも当たり前になりつつあるが、健康のサポート以上に歌人の夫君はそれとも違った大変さがあるだろう。
印泥の朱にまみれつつ婚姻の後の私は無頼を生きる
いつぴきの犬をふたりで撫でてゐるこの夕暮れをわれは捨つべし
現在の歌集では出産や育児と、それに伴う転居も盛り込まれている。
後ほどそれも読んでみたい。
「ひたかみ」は絶版らしく手に入らないので、初期歌集なら下のものになる。
なお、「ひたかみ」は日高見の地名。