島木赤彦

島木赤彦と中原静子の相聞歌 作品への恋愛の影響 妻不二子のアララギ参加

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これまで島木赤彦の歌集解説などを読んでいると、時折「中原静子との恋愛」という言葉が目を引くことがあった。

折に触れて島木赤彦の短歌を読んできましたが、今回判明した赤彦と静子の相聞歌、そして彼らの関係を知って、アララギに参加した赤彦の妻ふじのの歌をご紹介すると同時に、赤彦の生活上のイベントと恋愛との関連を記します。

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赤彦の婚外恋愛

 

当初、「赤彦の恋愛」というのは、赤彦が単身赴任中の教師仲間とのたまたまの心の揺れか、一時の過ち程度にしか考えていなかったのだが、読み進むにつれて到底そのレベルの話ではないということがわかった。

端的に言うと、その交際が人に知られることによって、双方が職場を自主的にかまたは実質的に追われる形になったとも思われるからである。
本人たちの意識はともかく、赤彦は妻帯しており、世間的には恋愛というより醜聞であった。

『馬鈴薯の花』から『氷魚(ひを)』まで

当然、その「恋愛」は赤彦の短歌の中に相聞歌として表れてもいるのだが、それが最初の中村憲吉との合同歌集『馬鈴薯の花』すなわち明治44年から『氷魚(ひを)』の大正5年の6年に渡る長い期間であることがわかった。

一部は赤彦自身が歌集から削ったようであるが、当時は臆することなく詠んだ歌でもあり、歌集から消し去ることができないものも多くある。というより、それら相聞歌を全部削ってしまっては歌の数が著しく減ってしまったことも推察できる。

いわゆる「乱調」の作をも多く含む時期で、そちらを削ることの方が第一でもあったからだろうが、結局この歌集『切火』は絶版となっている。

中原静子と妻

もう一つ特記すべきは、その相聞歌に、相手の中原静子もまた相聞歌を投稿していたこともさながら、赤彦の妻不二子がアララギに参加したという、きわめてめずらしい事態になっていたということである。

同じ歌誌に静子と妻が投稿

恋愛の当事者双方が歌人で歌を書き送るというのは、稀なことではないのだが、上の場合、一人の男性をめぐる二人の女性、正妻と愛人と、またその当事者が同じアララギに歌を掲載されるということになったというのは、前代未聞ではなかろうか。

与謝野鉄幹と与謝野晶子、山川登美子の例はあるが、その場合は結婚前に鉄幹を二人の女性が妻の座をめぐって争ったということであり、それとは事情が違う。

というより、そのような「醜聞」を当時のアララギが掲載したというのも、不思議にも思えることなのだが、アララギの経営者が島木赤彦本人だったのであるから、ある意味それも当然のことであったといえるかもしれない。

明かされたのは昭和40年代

赤彦の生活史に重要なイベントである中原静子との関係は、本誌や関係者にはともかく、一般には秘密にされていたようであって、「近年になってようやく明らかにされた」と久保田正文が記したのが昭和44年である。

「恋愛」とだけしか記されないことなので、当然ながら読者には見過ごされることが多いと思う。いずれにしても、赤彦の短歌を理解する上では欠かせない背景と考え、可能な限り出来事と対照させながら、年代順に歌を読み直してみることにした。

島木赤彦の経歴

島木赤彦は明治30年に窪田家の養子になり、長女うたと結婚したが、35年妻が急逝。妻の妹ふじのと再婚。うたとのあいだに後に17歳で逝去する長男、不二との間に二男二女がいる。

最初は教職に就いたが、文学に専念するため養鶏事業を起こし失敗。明治42年、教職に戻り校長職を得て広丘村へ単身赴任。そこで女性教員として採用された中原静子と出会った。

28歳で始めた歌誌「比牟呂(ひむろ)」を終刊後、アララギに参加。伊藤左千夫を迎えて当地で歌会を開き、後進の指導を大なっていたが、静子も教えを受けていた。静子に「閑古(かんこ)」という号を与えた。

赤彦にとっての広丘の時期

この広丘の地は「広丘は私の一生中最も印象を深くとどめた土地」「広丘にて小生の歌は育てられ申候」(大正3)と赤彦本人が言う通り、後々まで赤彦の自然詠に大きな影響を与えた。

「生涯の転機をなした時期であり、見方に拠れば後年<鍛錬道>をとなえるに至る淵源も実はこの時期における体験に発している」(本林勝夫)

『馬鈴薯の花』に見る相聞

のちの赤彦の歌には見られない、ものやわらかく整った歌風の歌で『馬鈴薯の花』は始まる。

妻子らを遠くおききていとまある心さびしく花ふみあそぶ
夕日差すげんげの色にかへるべき野の家思へばさびしくありけり
ゆふされば母が乳房をふくみ寝ぬる幼な心地に花にこもれり
物思へば思ひはてなき胸のものをおほにおぼろに花にやすらふ

あるいはこのような心持ちや単身の生活から、恋愛に傾いていったのは自然なことであったかもしれない。

寄りあう心

43年、「桔梗が原」への研究授業の遠出の道行きに、静子と心が接近する。

いとつよき日ざしに照らふ丹(に)の頬を草に深みにあひ見つるかな
草の日のいきれの中にわぎもこの丈けはかくろふわが腕のへに
夏草のいよよ深きにつつましき心かなしくきはまりにけり
いと長き夏野の道をわぎもこと二人し黙に野を忘れ来し

「丹(に)の頬」とは、赤い頬との意味。「あひ見つる」とは、互いにみつめあうこと。
赤彦が丈の高い草をかき分けて押さえ、静子はそこを通りながら進んだのだろう。

「こころかなしくきはまりにけり」というのは、心が極まったということ。
「わぎもこ」というのは、一般の親しい女性にもあるが、普通は妻や恋人に使う言葉になる。

同じ情景を詠む静子の歌は

まみ深くかぶる手ぬぐいかきあげて見入るおん目の情(なさけ)に泣かゆ
丈あまる草木をわける先生の腕(かひな)の下をくぐりては行きし

赤彦は静子を詠んだ歌にこう言う。

強烈なる男女の恋情がなお行為動作の平衡を保ちつつ、あたかもおのれに平衡が打ち破られんとするまでの強度に達しつつ、あるうましさの極み、苦しさの極み、このような心持を詠ってみたかったのであった。接吻にもならぬ、握手にもならぬ、しかし接吻にも、握手にも、啼泣にも、ただ一髪を隔てた苦悩のため息である。

 

たまたまに見つめらるるに心怖(お)ぢ眼をふせて思ひまどふも
深心わからぬ我にあらなくにさはれあの目をうたがふなかれ
秘め心思ひ見るさへはかなくてうつらうつらと秋草の中に

そして9月の歌会に赤彦は詠む。

二人して向ひ苦しく思へりしきよき心にかへるすべなく

ただ向い合って何もせずにいるのが苦しく思う、その自らの心を知ってしまっては、清い心に戻すことができないという。

また、赤彦は、自分の上の歌の後に、妻不二子を詠む歌をも置いている。

霧明りかくおぼろなる土の上にとほく別るる人やあるらん

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