豌豆の花早咲くといふ手紙無ければ昨日自殺してゐた
遠く鳴るサイレンの音に目をさまし再び君を激しく思ふ
吹雪く尾根をつぶての如く越えてゆきし二羽の小鳥は幻影だったかも知れぬ
先日の歌会の折、吉村先生は「口語短歌のエピゴーネン」ということを口にされた。先生ご自身は昭和20年代の頃の口語調の短歌を試みた一人と思う。先駆者と言ってもいいかもしれない。名前の挙がった俵万智はまだ生まれていない。
短歌新聞社文庫で平成10年6月再発行とある。
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草の中に横臥す君の脹らめる腰の辺りが草の上に見ゆる
――『早春歌』「裾ひろくクローバーの上に坐り居る汝を白じらと残して昏るる」と比べてみても彼は近藤芳美のこの歌に詩の過剰を感じていたに違いない。美化詩化をできるだけ排除して実体実質を投げ出すのである。彼の多くの相聞歌は肉体的でしかも清潔にドライな感じの中に衝動的な強い感情を宿しているものが多い。―― (小谷稔解説。『アララギ歌人論』「吉村睦人論」より)
かすかなる風の音に顫(ふる)えつつ君かと思ひわが立ち上がる
あたたかきタオルで顔を拭いつつ激しく君をまたわが思う
下の歌は男性独特の感じ方なのだなと思う。上の解説によく理解できる。
以前からよくわからなかった寺山修司の「森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし」を急に思い出した。
醜きところもいくらかはあると思ひてかなしみをわれは怺(こら)えむとする
いずれも昭和三十年代の歌。一月に作者のお姿とお声を初めて知った。