知人のところで清水房雄の歌を読んできた。
スポンサーリンク
吉村昭氏の亡くなったときは、メディアはその死に方ばかりに焦点を当てたが、清水氏はここに「生き方」という言葉を入れていることにいろいろ考えさせられた。
吉村氏は若い頃に結核にかかった。当時の結核は死病と言われ、特効薬の出る前の頃で、安静と滋養が唯一の手段だった。
弟が運んできた簡素なつましい食事に吉村氏は膳を放り投げ、これでは治らない、俺は生きたいのだと言った、そのようなエピソードが書かれていたように憶えている。その後肺の病巣を潰す手術を受けたのだが、まだ施行例が数例しかなかった手術を受けるということは、吉村氏が「生きること」を選んだということでもあったろう。
死ぬことを自分で選んだ氏は、むしろ生きることを自ら選び取った人でもあったことを、上の歌に思い出させられる。
瀬戸内寂聴(晴美)氏は昨年8月3日の追悼文を、次のように締めくくった。
「少し体調を崩しているけれど大したことはないという節子(妻で作家津村節子)さんの言葉を真に受けた馬鹿な私は、一度も見舞いの電話さえいれていない。それが口惜しい。この世でもう一度逢っておきたかった。」
それを読んで私は、あ、と思った。「あの世」かは知らないが、いずれにせよ瀬戸内氏は吉村氏にまた会えると、そのように思っているような気がした。
冒頭の清水房雄氏は91歳にて新聞の歌壇の選者を続けておられるのだが、91歳というと知人にも亡くなる方の多いご年齢と思う。
たくさんの訃報に接してこられた方なればこその歌なのだと、そのように思い至った。