三好達治の「雪」の解説と鑑賞です。
太郎を眠らせるのは誰か、太郎と次郎は一緒に住んでいるのか、思い浮かぶ疑問を元に、詩を深く味わってみましょう。
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三好達治 「雪」の全文
雪 三好達治
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
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「雪」の鑑賞
たった2行だけの短い詩。
それだけに、詩の余韻の中に様々な疑問が生まれてくる。
「雪」の太郎と次郎は兄弟か
おおむね、太郎と次郎は兄弟ということで理解されているが、家父長制も弱まった少子化時代の今は「次郎」が次男だということを浮かべる子どもの方が少ないと思う。
日本の家屋であったとすると、寝かしつけることを必要とするような年齢の太郎と次郎が別々の部屋、または別々の家に寝ているとも考えにくい。
太郎と次郎は一緒に住んでいるのか
屋根は「太郎の屋根」「次郎の屋根」であって、あくまでそれぞれの屋根であって、太郎と次郎は別々の家に住んでもいるようだ。
兄弟であり同じ家に住むのであれば、「兄の部屋」というのはあっても「兄の屋根」「弟の屋根」という区別の仕方は通常はしない。
しかも、各行は句読点「。」で、それぞれの文として完結しているので、やはり建屋は別のように思われる。
つまり、太郎と次郎は、兄弟のような親しいつながりを保ちながらもそれぞれ別々の家に寝ている。
複数の屋根が連なり、そのそれぞれの屋根の上に雪が積もっていくというのが自然な詩のイメージだろう。
太郎と次郎の母の存在
英語と違って、日本語は、主語を省いても差し支えないので、「太郎を眠らせ」るのが、お母さんなのか、それとも「雪ふりつむ」の雪であるとのどちらともとれる。
別々の家に眠る太郎と次郎を眠らせるのは、雪でもあり、詩の中に書かれてはいないお母さんでもある。
なお、「ふりつむ」は、「降り積もる」の文語形。意味は同じ。
「雪」と伝統的短歌との類似
詩人で評論家の伊藤信吉は、三好達治の雪について、その作品の短歌との類似をあげている。
これを現代叙情詩の形成という点から見れば、作者は意識的に、わざわざ短歌に近い形式を用いたのである。つまり短章に近い小さな詩形を用いるとき、その叙情は、伝統詩の方へより強く傾くものか、それとも現代詩としての新鮮さを獲得することができるものか、そうした実験が行われたのである。―伊藤信吉「日本の詩歌」より
また、三好達治のこの作品は、伝統詩と現代詩の比重を量ろうとする実験的な作品であったとの見方を述べている。
三好はこの作品を新しい抒情詩を切り開くものとして提示したというのが伊藤の見方である。
三好達治詩集「測量船」冒頭の短歌
伊藤信吉が以上のように述べているのは、「測量船」の、冒頭の作品は意外なことに、詩ではなく短歌だからである。
「測量船」冒頭の短歌
春の岬
春の岬旅のをはりの鴎どり
浮きつつ遠くなりにけるかも
この時代の詩人たちは、いずれもが日本の伝統詩である短歌との結びつきを強く持っており、それをベースにした 、現代詩であり、ダダイズムであり、前衛であったと思われる。
ダダイズムの代表的な詩人は中原中也であるが、彼の詩の一節、「汚れつちまつた/悲しみに/今日も小雪が/降りかかる」という句は、中原中也の他の作品と同様七五調の定型をきっちりと保って記された。
一方、三好達治の師であった萩原朔太郎は師の北原白秋に倣い定型とは対極の自由詩を記したが、 文芸の出発点は短歌であって、「ソライロノハナ」という自家製版の歌集を編むほど短歌に傾倒していた。
しかし、朔太郎が詩作に入っては潔く和歌とは袂を分かったのに対し、弟子の三好達治は東洋の伝統詩の和歌を常に並存させていたようだ。
「測量船」の最初の作品が、上のような古風な短歌であるということ、そのあと一つ置いたところの作品が「雪」であるということは、鑑賞の時に心に留め置かれるのが良いと思う。
この詩を読んだ感想
雪の光景のなかでは、目の前の枝も岩も地面もみんな白くなる。自分の屋根も雪をかぶっている。隣の家も屋根をかぶっている。その屋根の下ひとつずつに「家」があり、人がいる。雪景色と「太郎」という名前は、むしろ時間を越えて普遍につながるイメージを持っている。冬の朝、どれだけの人が、今同じようにストーブのスイッチを入れているだろうと思うことがある。そうして、自分はそのストーブに手をかざす。手のひらがもっとやわらかく小さかっただろう、あの日の朝と同じように。
三好達治について
三好 達治(みよし たつじ)1900年 - 1964年。
大阪府大阪市出身の詩人、翻訳家、文芸評論家。萩原朔太郎に師事。処女詩集『測量船』は叙情的な作風で人気を博した。他にボードレールの『パリの憂鬱』の翻訳など
『雪』を所収する“現代抒情詩”を展開させた画期的詩集。