「千の風になって」の作者、新井満さんがお亡くなりになりました。
「千の風になって」は、英語の詩が、歌詞の原詩です。2007年には、英語の教科書にこの詩が掲載されたことがあります。
「千の風になって」の歌詞を振り返ります。
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「千の風になって」の論評
2007年四月、この歌の歌詞の英語の原詩が、英語の教科書に掲載されたという記事を新聞で読んだことがあります。
その時の 読売新聞編集委員の、芥川喜好氏によると、死者は風になっていつも生者とともにある、だから嘆かないでほしい、そういう詩であると言われていました。
この詩を訳し、歌として、自らが歌った新井満氏は、当初、「死者が書いた詩、死者が生者を励ます詩」というという発想に驚かれたといいます。
新井満さんは、12月3日に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。
「愛する者は近くにいる」死という考え方
「死は愛する者が遠くへ行ってしまうことではなく、姿を変えて近くにいること」という死生観、宗教的ではなくて風や光といった素朴な自然感という日常性が、日本でも共感を呼んだことが、この曲のヒットにつながったと言えるでしょう。
芥川氏によると、新井氏が老子の哲学に親しんでいたことも挙げていました。
具体的には、
「この歌のひろやかな救いの感覚は『風』という言葉の繰り返しとそのイメージにある」
と言われていました。
「千の風になって」は英語の原詩がある
ネットで原詩を当たってみたら、もっといろいろなことがわかりました。
「千の風になって」の作者メアリー・フライ説
「A Thousand Winds」は英語圏では、それ以前から広く知られており、原作者は不詳だが、メアリー・フライ説が有効であるといいます。
さらに二木氏は、この詩の「汎神教的・アニミズム的感覚」を指摘しています。
二木紘三氏のブログは以下に
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/02/post_726d.html
「千の風になって」原詩との比較
新井氏の訳の方は、歌詞として用いられるもののため、「風」を含む一部分に焦点が当てられているのだが、英詩のほうを見ると、「雲」「実り」「雨」「部屋」「花」といった、身近なあらゆるものが挙げられていることがわかります。
私がもっとも引かれたのは、この詩の書かれたきっかけ、動機の方です。
メアリー・フライが詩を書いた理由
原作者と思われるメアリーが友人マーガレットと話していると、マーガレットは亡くなった母親の墓参りに行けないことを深く嘆いた。墓に行くことを望んでいたのだが、マーガレットはユダヤ系だったので、当時ドイツに帰れる状況ではなかったのですね。
メアリーはマーガレットが泣いている間に、その詩をしたためた。「脚韻を踏んで」いるという、やや高度な手法なため原作どおりではないとも言われてもいるようです。
しかし、メアリーが
「私はお墓にいるのではないので、そこで泣かないで」(Do not stand at my grave and weep, I am not there, I do not sleep.)
と書いたことは、十分にその伝えられた状況に符合します。
メアリーは、友人の家族である死者に同化し、そして、その死者のメッセージを代弁したことになります。
家族を亡くした人を慰める「千の風」
つまり、その詩は、やはり何よりも友人への慰めとして書かれたものであるのです。
メアリーはそれが有名になってからも、その著作権を主張しようとはしなかったそうです。
なぜかはわかりません。しかし、メアリーにその詩を書かせたのは、その状況であり、その”死者”であったとすれば、それも納得できる気がします。
そして新井氏も、やはり家族を亡くした友人とのつながりで、この訳を歌にしたということでした。
この詩のすばらしさは、そのように生きている人を慰めるためにあったということです。
肉親を亡くした人を慰めたいと作られた詩であり歌である、そのことが、多くの人にこの歌詞が受け入れられた理由の一つであるのでしょう。