鹿児島寿蔵の短歌代表作 紙塑人形の人間国宝でアララギの歌人  

広告 アララギ

鹿児島寿蔵の短歌代表作 紙塑人形の人間国宝でアララギの歌人

※当サイトは広告を含む場合があります

鹿児島寿蔵はアララギの歌人で選者。後に紙塑人形の人間国宝に選ばれた人です。

鹿児島寿蔵の短歌をまとめます。

スポンサーリンク




鹿児島寿蔵とは

鹿児島寿蔵は、紙塑人形の製作者でアララギの歌人、撰者も務めました。

鹿児島寿蔵の短歌

山の上の雲おもおもと移るときしばし冬空のそこひを見せぬ

ひと踏みて道となりゆく此の芝生つゆあたたかに光りつつあり

もろもろの石をひたして濁りいる水に小鳥のさへづるひびき

春いまださだまりがたくたゆたふか身にひびくごと桜少し咲く

山谷はしづむ霧ともたむろせる雲とも見えてあかときの月

秋はやき狭間に水を求(と)めて来し吾がため榻(たふ)のごとき石あり

ほろびたるものを惜しまず移りきてしづけきあした麦に降る雨

高原にひとり住みいる子の家にはるけき山を越えかゆくべき

中央公論社「日本の詩歌」29巻より。

美術工芸家らしい細やかで客観的な自然観照が含まれる。

「失明せる母」より

谷みづのかをるみなもとに帰りきて顧み思ふかたみのいのち

健やかに老いたる母に今あへど其の眼盲(めし)ひてわれをうつさず

朝谷のかぜにまぎるる河鹿のこゑめしひの母とふたり聴きにき

白濁のまなこをあげて見送ると吾がかたに向きし母のおもかげ

「失明せる母」群作についての斎藤正二の解説から引用。

斎藤はアララギの歌人。

どれ一首を取ってみても、事実の再現(写実)がそのまま”愛”についての思索を提示していないものはない。単に悲痛な事実を報告したから読者を感動させるのではない。律動や音韻を通して”愛”の思想を模索していればこそ人を共感させるのだ。

 

短歌という形式の美点を満たすということが、叙述の成就と一致を見る時、それが即ち「表現」というものの成立だろう。

そして詩歌においては、それを離れて取り出せる「事実」などというものはあり得ない。歌に描かれた事物がすべてである。

ふるさとは無しとも思ひ或時は血すぢひくものに心うれひき

東の塔かこひめぐらすとひとところ松よりおこる寒き音あり

雨あとの夕ばえ透る町裏を肩をいだきて母歩ましむ

母の膝に寿司の飯粒こぼるるを拾ふのも吾がのちのよすがぞ

両眼の盲ひし母の膝におく其の手のかたちいふべくもなし

物の慾すでに枯れたるすがたにて雪の晴間の日向に母あり

ふるさとの家の燈あかるしくぐまれる盲ひの母に箸とりてやる

これらの歌について、下のように解説

指先の麻痺した癩盲者に”点字舌読”用の歌集を作って寄贈したりもした。言うはやすく行うにかたいこれらの善行は、実は寿像の”歌ごころ”の発露にほかならない。

日常の行為を歌に詠むことは多いが、それが心の深く常に通底しているともいうべきか。作品にしたものは猶更おのれの内に深くとどまる。私自身のありかたについても、この箇所は何らかの示唆になるかもしれない。




-アララギ

error: Content is protected !!