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強制不妊手術の報道に思い出すハンセン病の歌人伊藤保の短歌 歌集『迎日』より

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旧優生保護法下で障害者に不妊手術が行われていたという事実が広く世に知らせるようになりました。
この場合の障害者というのは、多くは知的障害のある方たちです。

その記事を読んで思うのは、ほんとうの弱者という人は、語るべき言葉を持たないひとなのだということです。

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強制不妊手術の報道

今年1月に、旧優生保護法の下、知的障害を理由に同意なく不妊手術を強制され、救済措置も取られていないのは違憲だとして、被害者の女性が国を提訴したことから始まった調査でした。

判明は24%のみ

「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という旧法第一条に基づいて、意志に反して、あるいは意志を確認せずに、手術が行われた16475人のうち、名前が判明したのはその24%です。

名前の判明しない人たちには、救済等の措置は行われないことになりますが、その人たちはこれまでどうしていたのか。その人たちは自分になされたことの意味を知っていたのだろうか。

障害を持つということが必ずしも不幸というべきではないと思いますが、ハンディがある人たちになされたこの行為は、さらなる苦しみを負わせるに十分なものであったのは間違いありません。

ハンセン病の歌人伊藤保の『迎日』

語られなかった言葉の代わりになるかどうかはわかりませんが、思い出した伊藤保という歌人の短歌を引きたいと思います。

歌集の題名は『仰日』、「ぎょうにち」と読みます。

伊藤保の経歴

同歌集を読みますと、お父さんが同病。21歳で九州療養所に入所。アララギ会員となり、最初斎藤茂吉、次いで土屋文明の選を受けた。

園内短歌会の幹事となり、文芸誌「檜の影」を編集。『仰日』でハンセン病の歌人の代表的な一人となりました。

津田治子との交流

付記すべきことは、同じ療養所に後から移ってきた津田治子が居たことです。
伊藤と違って津田の歌は題材が病に限られておらず普遍的なものだったので、おそらく伊藤の歌よりも広く読まれているかと思います。

津田の歌は未整理のままでですが、下の記事にできるだけ載せています。
二人の相聞歌と合わせて、後ほど整理してお目にかけたいと思います。

伊藤保の短歌

伊藤の歌から子供に関するところを追います。

療養所内での妻帯

布雲のいつしか暮れて星明り愛しく古りし妻と眠るも
紅のカーテンを欲り呟きゐし妻は眠りて笑ひ声立つ
看護あひ共にしのぎて住む家の門札に露吹く春とはなりつ

入所者は結婚は許されていたので、伊藤は妻を娶ります。

常の結婚とは必ずしも同じではないとはいえ、どんなにか安らぎではあったでしょう。

身ごもりし妻は庭に下り掌にとらへし蛍を光らせてをり
人参の花いけて互みに対ひをりみごもりてより美し妻の掌

そして、上の歌の通り妻は子供を身ごもります。
しかし療養所内では妻帯は許されても、子ども持つことは許されていないのです。
なので、妻は堕胎のために早月で出産をさせられたようです。


うつつなき汝は苦しみの声挙げつつやうやく頭を成しし子産みぬ
子をおろしし妻を白衣に包み入れ抱きて梅雨降る廊下を帰る
暗きところに独り虚しく立ちてをりしと息吹き返しし妻は泣きをり

生まれた赤子は「やうやく頭を成しし」というくらいの人工的な早産で、生まれてまもなく亡くなります。

苦しみつつ息吸ふ汝の目を開きて生まれし子の掌を開きてやりぬ
七月にて生まれて拳がほどの吾子いくらも泣かず死にゆきにけり
たまゆらは息深く吸ひしみどりごを生くると思ひて抱き上げにき

妻はその子にふれて、わずかな時を惜しむのです。

栗の花こぼれ散りくる羊歯の中哀れなる胎盤を抱ききて埋む
吾子を墮ろしし妻のかなしき胎盤を埋めむときて極りて嘗(な)む
羊歯の葉の羽目にひろごりし若株を吾子埋めし土覆ひて植ゑぬ

出産で身から出た胎盤を伊藤は土に埋めます。そしてその上に羊歯の葉を植えます。

伊藤の方は、ハンセン氏病で片足を切断した上に、結核を併発して喀血し、死をも覚悟しながら、横になって歌を詠む毎日でした。

なので、堕胎ということもやむなく受け入れたようです。

病める身を諾ひて神に縋(すが)るわが妻に身ごもる子をおろさせぬ

妻の方は、おそらく何とか子供を持てるように祈っていたのでしょうが、伊藤の方は「病める身を諾(うべな)ひて」、病気なのだから仕方がないと、療養所の規則の通りにしたのでしょう。

私はこれを読むときに、それを受け入れなければならなかった、伊藤の病状の重さを、この上なくつらく悲しいことだと思うのです。

子をおろしし妻の衰へ目にみつつなほしも吾は断種ためらふ
わが精子つひにいづべき管(くだ)閉ぢき麻醉さめ震ふ體ささへて歸る

その後、伊藤は断種手術を受けます。子供を持てないことはわかっている。しかし、それでもためらいの気持ちが詠まれます。

この歌を詠むと、子供を持つということが人にとって、どういうことなのかを考えさせられます。

柔毛(にこげ)立ちて露のひかれる熟桃(うれもも)をもぎてあたへむ子のわれになし

桃を見て「子供があったら与えるのに」と思う父親の心も詠まれています。
伊藤は五十歳で、子供を持つことなく、療養所でその生涯を終えました。

伊藤の自負と覚悟

ハンセン病で有名な歌人には、明石海人がいますが、「伊藤は彼の立ち位置とは違い、療養所に生涯を埋める自己を真正面から見据えて決して目をそらすまいと覚悟したところのある歌人」だったと大原富枝さんが述べています。

ここでの生涯を自分は眼を背けることなく、歌を詠むことによって生きるのだと、という悲壮な自負を持った人であったと。しかし、私は少し違うように思うのです。

確かに、海人や津田と違うところは、伊藤の作歌のテーマがぎれもない病苦であったということです。

伊藤本人は、それを外の世界につながっている海人や北條民雄とは違うところだと述べましたが、実は人権闘争にも参加した伊藤の場合は、それをアピールするのは、他ならない「外の」人たちに対してであったと思います。

園の中にいれば、誰もが同じ病気であり、病苦はめずらしくもない日常です。それをあえて詠み続けるということは、あくまで外の人に対してであったでしょう。こんなにも悲しく苦しいことが、あなたたちの知らないところの、この世の中にあるのだと。

「耐え忍びながら、それでも生きている私たちを見てください」と、伊藤の歌はそういう主張であったと思います。

そして、「一度は世に出づることのあらむかもわれ商(あきなひ)の書(ふみ)手放さず」を『仰日』の冒頭に置いた伊藤にとっては、歌が生涯隔離された園からただ一つ「外」へ通じるすべであったのでしょう。

だからこそ、伊藤も、そして津田治子も、文字通り死の間際まで、命を削っても歌を詠み続けたのだろうと思うのです。

 


 

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