津田治子の生涯と短歌  

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津田治子の生涯と短歌

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少し前にこの本「歌人津田治子」に出会ってからしばらく、津田治子の歌とその周辺の本を当たっていた。津田の歌の魅力は、当初の「歌人津田治子」の中に余さず述べられている。

他にも当時の土屋文明のハンセン病施設での指導の記録や、当時のアララギの他の投稿者の作品など、津田の紹介のみにとどまらず、たいへん興味深い内容の本だと思う。

津田治子の歌集は絶版で大変手に入りにくいため、以下に筆写したものを掲載することにしました。できるだけ年代順に並べて、わかるものは年数を入れましたが、必ずしも順番通りではないところもあります。

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津田治子の歌作のはじめ

最初の歌作は昭和13年頃。

のちに推敲が多くみられるが、「当初から整って詠まれていた」(五味保義)とされる。

花桃に冴え返りつつ沁む如き月てるきよき夜となりにけり (14・4)
昏れ長き春の夕べにたゆたひて聖木曜日の聖餐の鐘
姉に秘めて吾の写真を持ちながら手紙をくれぬ父の心よ
月没ちし暁闇に夕顔の花におふなり露のたりつつ
眠らむと帰り来りししとねの上白々月の照りゐたりけり
時じくの春の吹雪に立ち別れ去なむと君が言ひしたまゆら
枯草の根に消え残るときじくの春の斑雪を踏みつつゆけり
山峡の沼のほとりにくだり来てやや傾きし十四日の月
窓の灯のさす処迄寒々と時雨るる野路を越えてきにけり(16・4)
うら枯れしここの広野にをりをは家鳩の来て草の穂をかむ
朝の日のやうやくぬくくなるなべに枯野の中に虫なき出づも
枯原に池をめぐりて風冷ゆる夕べを子らの遊びあかなく
乳色のもやのなかなる檜原ゆきゆく手もさやに朝鳥のこゑ
杉垣の杉のおくがに消残りてきよく凍てたる一塊の雪
つひにしも音なかりけり吾母がいのち死にゆきし日の夕昏や
在るがままに過ぎつつもとないつよりか老父の夢もみずなりにけり
西にゐし雲が日暮れにわが庭に雨をふらしゆく北に向かひて
梨の葉にそこらく交じる柿の葉の朱きは花の如し掃きゆく
くれなゐは透くばかりなるアンラジュの冬芽やうやく解く今日の雨
月の出のひかりの下に梟のこゑは閑けし檜の山に
ひとときに霜にうたれて枯れ伏せばとりとめもなき野の上の月
かなしみはいくたびにてもまざまざと立ち返りつつ再逢わぬかも
櫟(くぬぎ)の実の草に落入るさまざまのありさまを思ひ夕べををりぬ
虫が音は昼もあまねしうずくまる茅花(ちばな)呆けてとぶ原の中
草の上昏みゆくまで野を歩みあゆみを返しがたく寂しき (18・4)
昨日より梅雨の晴れたる明るさに窓の青葉に風たち止まず
午後三時の日は照りながら硝子戸に火蛾は卵を生みつけ止まず
生きてあれば古稀を迎ふる吾父を夜のともしびと恋ひ思ふかも
凍土に雪のちりぼふ朝より四十雀来てふふみ鳴きする
雪雲は夕べ切れつつ鮮やかに西山脈の上の澄む空
奥肥後のこの高原にみ雪ふり麦青みきて踏むべくなりぬ
夢にたつ面影すらになくなりし母よただ思ふ二十五年の今日
今日の日のあかね昏れゆけばわが心常のおだしきさまにかへるも
いたづきの生の日々をいつくしみ桃がひらけば桃によりゆく
こよひ早く夫が眠れば三日月を恋ひてぞ下る庭芝の上(25・2)

 

「歌人・津田治子」を最後まで読むと、病状は想像するよりはるかに重かったことがわかる。

死因は癌だったがその最後の床で、津田は連日短歌を暗唱して看護の人に書き留めてもらっていた。

その数は最大で一日に二十三首とあって、聞くだけで驚かされる。

短歌の才があったのはもちろんだが、暗唱の才はやむを得ず身についたものでもあったろうと思う。

津田の時の写真を道浦氏の本の扉に見たことがあるが、手指にも障害がありおそらく書字もままならなかったのだろう。

それ以上に、両眼の失明こそ免れたが、片方の目は以前より失明、もう一つの目の失明を恐れる歌も多く、視力の衰えが必然的に筆記しながらの推敲を経ず、頭の中で完成させる習慣が身についていたのだろうと思う。

単に才といって済むことではない。思えば津田にとって短歌そのものも、限られた環境と条件で必然的に身になったものに違いない。

 

園内での恋愛体験

隠すなきことばの前にうろたへて咲きしずまりしさくらを言へり(25・6)
日もすがら埃を上げし風止みて雨の来たらむ今日の夕昏
夫を焼く日は燃えをらむ帰り来て畳に眠る沈む如くに
吹ききたり吾にとどまる春の雪この身をみそぐ思いに佇てり
夕餉後に浴をしたりかかることも吾に稀にして富めるがごとし
靄ごめに鳴きし山鳩のこゑ一つきこえてのちは遠くなりたり
筒鳥はためらひもなきこゑに啼く月の明るきに草ふみゆけば
月の光くぐもるこよひ藪陰に忍冬の花の匂ひこそすれ

 

米田氏は津田の歌が最初から整っているのはなぜかを述べているが、最も最初の歌が昭和十三年で、相聞の一連の歌が昭和二十五年と隔たりがある。

そして最初の歌集を編んだのが二十八年頃で、その際に再度の入念な推敲を行ったことがアララギ本誌の投稿時の稿との対照でわかるように示されている。

伊藤保の恋愛、二十五年の頃は十年以上の歌歴を積んでおり、「見る影もなく崩れたる身を歎くことも少なくなるまでに老いぬ(25・12)」に見られるように、「病よりも吾を歎くことが多かったから」「人間としての悩みを歌う」ようになったため内容が濃いものになっている。

そもそも互いの病苦を見知った上での恋愛であって、病気が恋愛の障害となるものではなかった。

伊藤との交流も含めその経験が津田の歌に大きく影響したと思う。

 

実らなかった婚外恋愛

月のなき夜の空のもと現身は炎となりて在処知らずも(25・)
アカシヤの花すぎ方の山に来て女身をなげくこともはかなし
食欲のへりしことなどを思ひつつ灰つけて茶碗をみがく二つ三つ
愚かなるわが一途さを思ひつつ山の苔をふむ人を恋ひ来て
清貧といふこころにもいと遠く貧しき生をわがするものを
春ふけて葉を落としゐる柿の木を見つつし病みてゐたりしものを
ゆく春の白夜の明かりうつしみの父母も夫も亡きを思はしむ
南風しづまるなべに雨降り出づ濃き緋牡丹のくづるる上に
逝く春の雨は降りつつ雲の上照りつつあらむ夜のあかりよ

 

25年7月に歌集には未収録の作品が同本には掲載されている。

ただ、この恋愛は最終的には実らなかった。

米田はこれらの作品が歌集から外されたのは、「賭けが成就しなかったため」だという。

 

身をせめぐ思い

夕雲に沁みし茜も昏れゆきて草ふみかへる相なげきつつ(25・8)
布引の雲のたゆたふ空のもと萩の芽吹かれわれも吹かれゐる
山中の沼のほとりにたらの芽はかくの如くに開きつつをる
煙だちて露の雨ふる午すぎをたゆたひて塔に入りゆく家鳩
ひとむきに靡く茅花も夕昏れて顕ちくるは父かとも責むる声にて
アカシヤは二度芽萌えつつ露明けて峰より揺らぎ騰る白雲
夕ぐれの黄なる光に向かひたちやさしき前の峰より暮るる
思ひ一つ抱けば夜半のくらがりに春の蚊のなく声もはかなし
花ふふむ荒地野菊の限りなき野を移りゆく黄なる夕光
黒土の埃しづめて降る雨に一むらふかき蕗の葉の青(25・9)
四五本のマーガレットを瓶にさす素直に人にうなづきながら
吾を待ちてともりし家の暗き灯が見ゆれば暫くかがむ(欠)
山峡の道のたをりを歩み来て木末を垂るる蔦を見よと言ふ
草山も柞(ははそ)の社も限りなく吾がまなかひに萌えつつぞゐる(25・10)
夕暮れの冷たき雨に濡れてきて春の一日の終わらむとする
山に来て遊ぶはいく年ぶりならむいたはられゐる春草の上
茱萸の花白く咲き出でし庭の上再び夫が踏まざりしかも
夫がありし日々を苦しみ今日の日を心きよくも在りがてぬかも
玄鳥かへり来りて営むにかひなき歎きくり返しゐる
てのひらに残るわづかの感覚にたどたどとわが髪を結ふ(25・11)
合歓の花とづる夕べの梅雨ばれに小さき丘を越えて来りぬ
父も母も顕ちくるかなや高原の草野の霧に月くぐもりて
在りたへてゆかむ思ひも限りありて雨ふり出でし夜半に眠るも

 

しかし、伊藤の歌と並べてみた内容には相聞的な呼応は見いだせるものの、うまく言えないが所謂恋愛の歌とは違った印象がある。

津田には「父恋い」の歌も多いが、そのように対象への恋慕をまっすぐに表したものは少ないためかもしれない。

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-アララギ

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