斎藤茂吉 本・歌集

氷きるをとこの口のたばこの火「確定条件の力」「近代短歌の範型」より大辻隆弘

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「近代短歌の範型」大辻隆弘。この人の評論集は二冊目。前作も大変おもしろかった。
今回は確定条件を表す「・・・ば」。
それが斎藤茂吉の場合、しばしば特殊な使われ方をする。それについての論考。

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理由を表す「・・・ば」
氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり

斎藤茂吉の「赤光」の一首。

已然形に「ば」がつくと順接の確定条件を表す。「~から」「~ので」という原因や理由を表したり、「~すると」という因果関係をはらんだ接続を表したりする語法。

これについて大辻は

「煙草の火が赤かった。だからこそ、私はそれを見て夜道を走った」確定条件の語法に従えば、この歌の下句「赤かりければ見て走りたり」は、そう言っていることになる。「煙草の火の赤さ」が原因であり、「走ること」が結果である。その両者の間には堅固な因果関係がある。茂吉はそう判断している。
ここには、明らかに凡人ではついていけない過剰な思い込みがあるだろう。

として、同様の茂吉の語法の見られる歌に、「本来、自分の心とは全く無関係な外界の事象を、強引な形で自分の心と関連付けてしまう茂吉の強大な心的エネルギーのようなものであろう。」と締めくくっている。

 

他の不可解な因果関係の例

それと似た不可解な因果関係を持つ歌を「白桃」より一つ引いておく。

 

上の山の町に売りいる山鳥もわが見るゆえに寂しからむか

これについては塚本邦雄が「一読すみやかにその真意は伝わらない。特に『ゆえ』が問題である」と言っている。意味はあえて言うなら「他の人はともあれ、この私が見るゆえに、寂しく映るのだろうか」と述べられている。

 

茂吉の確定条件の歌

茂吉の確定条件の歌として「赤光」より大辻の挙げたものは以下。

どんよりと空は曇りて居りたれば二たび空を見ざりけるかも
うち日さす都の夜に灯はともりあかかりければいそぐなりけり
ほのかにも通草(あけび)の花の散りぬれば山鳩のこゑうつつなるかな
朝さむみ桑の木の葉に霜ふれど母にちかづく汽車走るなり

面白いことに、茂吉は「赤光」初版中で多用した、この「~ば」の確定条件を、改選時には「居りたれば→居りしとき」「散りぬれば→散る山に」「霜ふれど→霜ふりて」と直している。佐藤佐太郎は岩波新書の「茂吉秀歌」では「どんよりと」は改選版の方に解説している。茂吉の意を尊重したのだろう。

「赤光」改選時の茂吉は、過剰な確定条件の語法を自作の中から排除しようとしている。このとき四十代になりつつあった茂吉にとって「已然形+ば」や「已然形+ど」といった語法の背後にある自分の若き日の過剰な心的エネルギーは、面映ゆく、鬱陶しく、鼻もちならないものと感じられていたに違いない。

茂吉が並外れて感情の振幅の大きい人だったのは多く語られるところで、「赤光」はやはりその資質がもたらす感情の鮮明さで有名になったものだろう。

他の研究者と歌人の評と鑑賞

茂吉の確定条件の歌について、他の研究者と歌人の評を見てみよう。

品田悦一「異形の短歌」

「煙草の火が赤かったから見ながら走った」と因果関係の把握が常軌を逸しています。錯乱した意識には世界がそう立ち現れているのです。「うち火さす都の夜に灯はともりあかかりければいそぐなりけり」と同様に、母の死に目に逢いにいく状況が納得できないまま急ぐうちに、こうしているのがまるで街の灯に操られた動作ででもあるかのように---自分の意志と無関係な動作のように感じられた、と読んでおきたいと思います。---「異形の短歌」品田悦一

一種の心理的な内因論。あくまで茂吉の内面を表すものと、ある意味で肯定的に読まれているものと思う。

塚本邦雄「茂吉秀歌」

塚本邦雄の解説は秀逸だと思う。原文旧仮名。

だが私にとって興味のあるのは、この訃音伝達の途次、夥しく目に触れたであろう事物風光、数限りなく生じたであろう彼自身の挙止動作の中、茂吉が選りに選ってまず蛍を、次には採氷人夫を、その次に彼の口と、唇の挟む煙草火を、かくも鮮やかにクローズアップしたという、その「選び」の冴えた感覚と異常な切味である。

その語法、やはり塚本もその特異性に注目する。

「赤かりければ」も亦場面に照応して、特異で強引な語法である。これも通例ならば「赤かりしかば」あるいは「赤しすなわち」くらいで済ますところだろう。だが作者の取った語法は、この第四句に不思議な辛みを帯びさせる。もちろんE音連鎖によって生ずる印象だが、それがまた「をとこの口のたばこ」と見事に照応する。

 

「をとこの口のたばこの火あかかりければ」この残酷なくらい美しい現像はどうであろう。「をとこの口」の「口」はいかにもくどい。だからこそ、煙草火の火明りに、刹那浮かぶ濡れた唇の朱さえ連想させる。茂吉の不敵な言語感覚の表れである。

いつも思うのは、短歌の生命というのは、読む人の心にあって、言葉を見て心に生じたものをつぶさに言い表せるものが、良い解説なのだろう。

氷を切る男のその身体の全体像、そして男、その口、唇にに挟まれる煙草、その先の火の色、そのような順を踏んだ提示が塚本の言う「クローズアップ」という手法になるだろう。

まとめ

私自身はなぜかこの歌を読んだときは、特に疑問には思わなかった。

辺りが既に暗くなっていて赤い光が目についた。その色が、白ちゃけた光ではなくて赤かったから目を引かれた。
立ち止まる時間はなく心の余裕もない、それが煙草の火だとわかる間にも足を止めずに走った、ということなのだろうと思う。

 







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