ラカンの「手紙は必ず宛先に届く」について 盗まれた手紙とせきたて3人の囚人   

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ラカンの「手紙は必ず宛先に届く」について 盗まれた手紙とせきたて3人の囚人 

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今日は郵便局に行ってきた。書類の内容から書留にする必要があった。紛失の際の保険があるというので一応それをかけた。

あまり必要ない気もしたが、自分自身の安心料みたいなものだと思うことにした。

そうして思い出した。ラカンには「手紙は必ず宛先に届く」という言葉があったのを。

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「手紙は必ず宛先に届く」

浅田彰の引用するところに拠ると、

 

ジジェクの解釈では、たとえば無人島から瓶に入れた手紙を海に流すという極端な例の場合でも、それが実際にはいかなる経験的な他者にも届かない可能性が大きいにもかかわらず、それは海に投げ込まれた瞬間に真の宛先である『大文字の<他者>すなわち象徴的秩序そのもの』に届くというのである。

 

ジジェクとアルチュセール

ここで言う他者は、ラカンのいう「他者」という概念であって、アメリカ精神分析辞典にはない用語である。抽象的でわかりにくいのだが、ジジェクの解釈は一種の自己回帰のような説明らしい。

対してアルチュセールは「手紙が宛先に届かないことも起こる」と反論し、それをどう思うかと尋ねられたラカンは黙って考えたのち「アルチュセールは臨床家ではない」と答えたという。

 

精神分析のセッティング

浅田氏曰く、

 

(精神分析における)転移の関係の中では、いかなる空虚もないような形、したがって他者の無意識にきちんと宛てられたすべてのメッセージが必然的にそこに届くような形で、情動的な空間が構造化されているのだ。

 

簡潔に言い換えれば、精神分析の場においては、被分析者の述べたことは、必ず受け取られ、また返されることは間違いない。
返されるのは必ずしも言葉ではないし、一見返されないと見えることもリアクションである。

 

精神分析と哲学との違い

それを見えやすくするために「場」というものがセッティングされ、この「場」には分析家と分析者(被分析家)の両方が含まれる。それはひとりで思索して進められる「哲学」とは、初めから異なっている。

浅田氏は『ラカンは精神分析的実践の観点から語っており、私は哲学的実践の観点から語っている』というアルチュセールの言葉を以ってこの文を終えている。

ただ、付け加えると、「手紙は必ず宛先に届く」という命題は、そのどちら分野ともまったく違う「意味」で、人々のイメージを喚起する魅力ある文だということは、確かなことであるようだ。

 

「盗まれた手紙」に関する断章

エドガー・アラン・ポーの英文タイトルは、The Purloined letter――ラカンに拠ればpurloinには、「回り道をさせられた」というニュアンスがあるという。

この手紙を持っている人は主体の座を与えられるが、盗まれると、その地位を失ってしまう――シニフィアンである手紙の方が、手紙の内容そのものより重要なものであり、その場の主体を規定する。

 

「今日の私たちの関心の対象は、間主体性の反復の過程で起こる置換
placement において、主体がどのように交代していくのかということです。」(「盗まれた手紙」についてのセミネール)

 

私はゆっくり思い出した。書き損じたのは私ではない、あなたのほうだった。あなたは私に渡す事務文書を書き違えた。ちょうど一週間前のこと、その事務文書は某所に持って行き、書かれた指示通りの物と交換されることになっていた。

しかし、書き損じられたその文字は実体との交換価値を持たない、すなわち言葉としての意味を持たないものとなった。

それに対して私は言葉を返さなくてはならないのだが、実体との交換価値を持たなかった言葉は、既にシニフィエではない、シニフィアンである。しかも私がこのはずではなかった、これであったと浮かべる方の、シニフィアンである。

私の言葉は、おそらく「花」のようなものになるだろう。郵便局で私が手紙に同封したのは、ムラサキツユクサの詩文を含む絵葉書だった。

 

***
ラカンの言うシニフィアンというのは、元々は言語学の用語なのだが、「音韻」ではない独自の概念で、「主体とシニフィアン(主体の用いる言語)」との関係、あるいは、「シニフィエとシニフィアンとの間の断裂」(オグデン)を指す。

 「主体は、話しながらも、自身が何を言っているかを知らない」(和田秀樹)

 

 「自己言及の不完全性によって、私が言語によってそれを言うことは、できなくされている。お前が何であるかを言え、と迫られているにもかかわらず、そのために使うべき言語は、それを言うようにはできていないのだ。」(新宮一成)

 

ラカンの「せきたて 3人の囚人について」

ラカンの理論にある言葉。「3人の囚人」の寓話を要約すると次のような話。

 

他者の存在と自己規定

「囚人たちの背中に、白と黒の5枚の円盤から取り出したものを貼る。他の人の背中の色を見て、自分の背中の円盤の色を類推して論理的に構成せよ」

3人は走り出さない残りの者たちを見る。そして彼らが走り出さないことによって、彼は自分の色を知る。そして3人は同時に走り出す。自己規定の話である。

 

時間というファクター

新宮氏は「ここで『時間』のファクターが決定的であることは明白である」と書いている。

 

この論理構成を支えるものとして、必ず一つの「せき立て」がある。(一文略)こうして「せき立て」という時間的機能と共に、自己規定が成立する。囚人が自らを「白」だと自己規定するように、我々は自分を「人間」であると確言するのである。

 

「自己規定」とは、言い換えれば「私とは誰か」という問いとしてあるものだ。
上の寓話はそれに私自身が他者を見て、「私が誰か」を知るに至るということだ。
意外にも、重要なのは、時間という要素がそこに不可避的に関わっているということだろう。

 

関連書籍

ラカンの解説書の中では、一番読みやすくわかりやすいものとなっている。

 

香山リカがいちばん多く読んだ本と言っていたもの。やや難解な面はあるが、夢分析の主要論文が掲載されている。一度は目を通したい。

 

これまでの理論と概念をクロスするオグデンの書。本邦初訳。和田秀樹の詳細な注釈入り。




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