「遊びをせんとや生まれけん」『梁塵秘抄』の有名な文句、意味は、「遊びをしようとして、わたしはこの世に生まれてきたのだろうか」ですが、この「遊び」とは何なのでしょうか。
『梁塵秘抄』とは何か、その中でも良く知られた代表的な歌「遊びをせんとや生まれけん」について、わかりやすく、さらに詳しく解説します。
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「遊びをせんとや生まれけむ」とは?
「遊びをせんとや生まれけむ」この有名なフレーズは、『梁塵秘抄』という本の中にある、当時の歌謡曲の中の歌詞の言葉です。
この歌謡のジャンルは「今様」(いまよう)と呼ばれました。『梁塵秘抄』は、その今様を集めた、平安時代末期に編まれた歌謡集です。
『梁塵秘抄』は歌謡集タイトル
「今様」は本来は短歌のような書き表された詩歌ではなくて、演者、主に遊女が実際にその歌詞で歌い、同時に舞いを舞う芸の一つでした。
この歌謡集を編纂したのは、後白河天皇です。
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梁塵秘抄とは 内容解説 後白河院の平安時代の歌謡集
「遊びをせんとや生まれけむ」は今様の歌詞
後白河天皇は少年のときより、この「今様」と呼ばれる歌謡をたいへんに好んでおり、実際演じさせては楽しみ、また自分でも口伝えにして憶えて、歌ったりしたのです。
自分の死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、書き留めて本にしました。
その集成の本のタイトルが『梁塵秘抄』です。
その当時に楽譜があれば、それも書き残すことができたでしょう。
後白河院は、それを遊女から、口伝えで直接習ったようですが、残念ながら節回しは正確にはわかりません。
しかし、類推するところを演奏している演奏家や、ネットで音源にしている人もおり、いろいろな推測がなされているようです。
「今様」とはどんな歌?
そもそもの「今様」とはどんな歌だったのでしょうか。
「今様」の「今」とは古いものに対して、その時代には最も新しいものであったという意味です。
いくつかのカテゴリーがあり、そのうち法文歌といわれる、仏教系の歌が数がもっとも多くあります。
しかし、仏教とはいっても、踊りがついており、それを歌っていたのは遊女ですから、文学的な堅苦しいものでも、仏典のようなものでもなく、あくまで流行歌のジャンルであったようです。
「遊びをせんとや生まれけん」を歌った人は?
「遊びをせんとや生まれけん」などの今様を歌った人の多くは、「白拍子」他の遊女たちでした。
遊女たちは当時は「遊女」(あそび)とか「傀儡子」(くぐつ)とか「白拍子」と呼ばれており、遊女が芸能を披露するのも生業の一部だったのです。
白拍子とは各地を巡遊する芸能の民で、白い装束に男の烏帽子をつけるという独特の男装スタイルで、今様を舞い踊りました。
能に出てくる静御前は、白拍子の一人で、その服装がうかがえるでしょう。
当時は女性が男装をするのが、当世風であったのです。
また人形遣いの「傀儡子」(くぐつ)は、人形を箱の上に置いて操りながら、今様を謡ったともいいます。
今様というのは、そのように演じられたものを皆に見せて、楽しませるためのものでした。
「遊びをせんとや生まれけん」の全文
遊びをせんとや生れけん
戯(たはぶれ)れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそゆるがるれ
七五調の4節でできており、平安町末期の歌謡形式でできています。
今でもWikipediaでは、これを「童心の歌」とまとめて書いており、私も深く考えないで読んでいました。
しかし、「遊女(あそびめ)」というように、この歌の「遊び」は二重の意味があり、この1行目と2行目の「遊び」と「戯れ」とは、子どもの遊ぶことだけではなさそうなのです。
3行目の「遊ぶ子供の」というところだけが、ここはその通り「子どもの遊び」ですが、遊女のいう「遊び」や「戯れ」は果たしてそれだけなのでしょうか。
「遊びをせんとや生まれけむ」の現代語訳と意味
この意味には二通りの解釈が成り立ちます。
「遊びをせんとや生まれけむ」の意味
一つは、
意味1:
遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。
戯れをしようとして生まれてきたのだろうか。
遊んでいる子らの声を聞くと、私の体までもがおのずと動き出す
つまり、人とは、遊びをするように生れてきたのではないか。その証拠に、子どもの声を聞くと、私もおのずから体が動いてしまう。というのがその解釈です。
言ってみれば、子どもの遊びについては、何ら否定の余地はなく、いわば遊びの肯定論です。
「遊び」の別の意味
対して、次のような解釈を考える人もいます。
意味2:
遊びをしようとして、わたしはこの世に生まれてきたのだろうか。
戯れごとをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。
無心に遊ぶ子どもの声を聴いていると、私の身も心も揺らいできてしまう
これを歌う立場の人は遊女であると上に記した通りです。彼女たちのいう「遊び」や「戯れ」とは、子どもの遊びだけではない、という類推です。
うかうかと男女の悦楽にふけって、ある日「自分はこんな遊びのためにうまれてきたのだろうか」という疑問が胸に浮かぶ。
子供の無心な声を聞けば、昼間の今は、表向きは子どもと同じように華やかに舞を舞っている。
しかし、夜は遊女としてけっしてそれと同じではない、あさましいなりわいが待っている。
そんなことのために、自分は生まれてきたのかという、深い嘆きの声がこめられているのがこの歌だという考え方です。
しかし、これはあくまで「歌」なのであって、舞と合わせるべき華やかさ、調べの軽さと調子の良さがあります。
そしてそれが悲しみ一辺倒ではない、不思議なデカダンスを感じさせるものともなっています。
おそらく、後白河院もそうだったかもしれませんが、後世の歌人たち、特に北原白秋や、斎藤茂吉が影響を受けたというのは、この今様の独特の雰囲気にあるのではなかったでしょうか。
『梁塵秘抄』の他の代表的な歌
『梁塵秘抄』の歌から、他にも有名なものを引いてみます。
「仏はつねにいませども」と「舞へ舞へ蝸牛」は「遊びをせんとや」と並んで、常に引用される梁塵秘抄の代表歌となっています。
『仏はつねにいませども』
仏はつねにいませども
現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に
ほのかに夢に見へたまふ
五七五七七の形に歌われているものです。
意味は「仏さまはいつも居らっしゃるのだけれども目に見えることはないのが尊いことだ。人の音のしない夜明けに、ほのかに夢に見えなさるのだ」。
これも歌われていただけあって、調べがひじょうになだらかです。
「舞へ舞へ蝸牛」
舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものならば
馬の子や牛の子に 蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん
真(まこと)に美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん
蝸牛に向かって歌う歌なのですが、「カタツムリ」を詠う点はわらべ歌のようでありながら、舞を詠うこの歌には、華やかさが付きまといます。
さらに、運命を翻弄するような、厳しく残酷な部分を含みます。
実はこの「カタツムリ」というのものに、この歌を歌っている白拍子自身のことが重ねられているからです。
そのように歌って皆を楽しませている遊女本人が、美しく舞わなければ明日はない。
そもそも、鈍重な蝸牛が美しく舞えるはずもなく、それを「舞え」というのは、からかいなのです。
そう思って味わえば、華やかでありながら、残酷であり、刹那的な春をひさぐものとしての悲しみが感じられるでしょう。
まとめ
吉田兼好は『徒然草』に「梁塵秘抄の郢曲(えいきょく)の言葉こそ、また、あはれなる事は多かめれ」と書きました。
また、北原白秋は「ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光(こんじきこう)のさす心地する」と「梁塵秘抄」そのものを詠んでいます。
歌い回しはわからなくても、そのように文字として残された『梁塵秘抄』。
書き残されたのは1174年、今からさかのぼって840年余り前のことです。
遠い遠い世の遊女たちが作っては、口伝えで残された歌、それを書き留めた一冊の選集が、後々の詩歌にも影響を与えるところとなって、今に伝えられていると思うと、いっそう感慨が深いものがありますね。
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