短歌

与謝野晶子代表作「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」とは誰?

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先月22日に与謝野晶子の19歳時の未発表短歌が発見されたというニュースがありました。

与謝野晶子の短歌について思い返しましたが、皆さんは有名な晶子の代表作「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」の「君」は、誰のことを指すと思いますか。

私は長らく、特定の人ではなく、世の一般の人に向けてなのだろうと思っていましたが、「君」は後に結婚した与謝野鉄幹との説が有力であるというのを最初に聞いた時は驚きました。

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「道を説く君」与謝野鉄幹説

与謝野晶子は堺の菓子屋の老舗に生まれました。晶子21歳の時、「明星」を知り夢中になります。そして、明治33年に与謝野鉄幹に会い、山川登美子との三角関係となります。

とはいえ、鉄幹には妻があり、晶子を諦めさせようと諭したのであったのかもしれません。
それがつまり「道を説く」鉄幹の姿なのではなかったかとの説です。

晶子にはそれがあまりに因襲になずんだ考えとして飽き足りなかった。
そこで鉄幹に向けて詠んだ歌、というのが一つの有力な説とされています。

晶子本人は「道学者諸君」

晶子本人は、これを「道を説く君」は、「道学者諸君」という意味だと注に記し、自身では誰か特定の人物だとは述べてはいません。

そのため、最初から鉄幹とされているわけではなかったようです。

住職の河野鉄南説

もう一つは、与謝野鉄幹に晶子を引き合わせた、紹介者、河野鉄南であるとの説です。
晶子はその歌について、実際にも、鉄南に下のように書き送っています。

じづはさきにご質問にあひし、やははだの歌、何と申し上げてよきかとおもひ、今日になりしに候。海渓様もかの歌身ぶるひせしと申越され候かし。こののちはよむまじき候。兄君ゆるし給へ

自作の歌を若干卑下した挙句、詫びを書き送っていますので、鉄南本が自分のことと勘違いしたか、あるいは、鉄南本人のことかとも思えなくもありません。

住職ですので、職業柄「道を説く」という言葉があれば、自分のことかと思っても当然とも思います。

 

話題はすぐ鉄幹のことへ

しかし、上の詫びを描いた後すぐ、同じ手紙の中で、晶子は鉄幹と会ったことを打ち明けています。

これは兄上だけに申し上げるのに候 まことまこと誰にも誰にももらし給うな 
私この五日の日、与謝野様にひそかにあひ候 誰にも誰にももらし給うな そは山川の君と二人のみひそかにあひにし候 兄君にのみに申すなり 誰にも誰にももらし給うな

と何度も念を押しながら書いています。

このとき「会った」というのは、もちろんただ顔を合わせただけではなく、鉄幹に恋心を抱いたということなのでしょうが、やはり若い女性として、誰かに話したい気持ちが抑えられなかったとみえます。

さらにこの手紙においては、上の打ち明け話のすぐ後、晶子は「かの君中国にて不快なることのありしまま、この度は誰にも会わで帰京するとの給い候」と続けています。

その「不快なること」とは鉄幹の家庭事情であり、妻、林滝野の父から離縁を申し渡されたということで、最初の出会いの頃既にそのようなことにまで晶子が関心を持っていたのも間違いありません。

道学者か鉄南か鉄幹か

つまり、恋愛をする女性の心理として、鉄南宛てに手紙を書いていながら、頭の中は鉄幹のことでいっぱいなので、鉄幹のことばかりを書いている。

そう思って歌の方、「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」を改めて読んでみると、これは手紙と同じことで、ひとりの相手のことが関心を占めているなら、「君」はそのただ一人、鉄幹のことに違いないとも思います。

鉄南は住職ですから、いくらなんでも住職を揶揄したとはとても思えません。しかも「柔らかい肌にふれてみよ」との挑発とも思えるような内容です。

そうなると、やはりこの「君」は鉄幹のこと以外にはないように思われます。

 

関係が深まったのはいつ?

与謝野晶子の属した浪漫派とその周辺については、私は詳しくないので資料が手元になくわからないのですが、続けて以下に憶測を述べてみます。

手紙の中に述べている「浜寺の歌会」の時に鉄幹と晶子、山川登美子は倒置に一泊をした。その日に、不倫の関係になったと書いている人やサイトもあります。

ただ、歌を時系列的に読むと、それはもう少し後ではないかと思います。
鉄幹も妻子がいる。初めて会った時に、いきなり深い関係になったとは到底思えません。

最初の出会いをきっかけに、晶子は鉄幹を慕う気持ちを抑えられなくなった。にもかかわらず、鉄幹には妻がおり、晶子が思いを伝えても、それ以上進展のしようもない。
「やは肌の」は、おそらくそういう時期に詠まれた作品ではなかったでしょうか。

 

『みだれ髪』の短歌作品を読む

元々が空想的な傾向の強い明星派ですので、実体験に即しているかどうかはともかくとして、「みだれ髪」を時間順のものとして見てみると、それらはおのずから読み取れます。

「狂ひの子われに焔ほのほの翅はねかろき百三十里あわただしの旅」と、晶子が鉄幹に会いに、状況をしたことを示す歌があります。

そして、そのあとに「うつくしき命を惜しと神のいひぬ願ひのそれは果してし今」続くので、歌の順番の通りだとすると、晶子の「願い」は上京の後において遂げられたことが明らかです。

さらに、歌集題名にもなった「みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす」の歌がここにあり、その「願い」とは、晶子が鉄幹とこの時点で一夜を共にしたことを指すことになるでしょう。

『みだれ髪』より恋愛の短歌

一首ずつを読んでいってみます。

髪五尺ときなば水にやはらかき少女(をとめ)ごころは秘めて放たじ

意味:
5尺あるこの髪を解いて浸すと、水に柔らかに髪がただよう。その少女の恋の思いは、心に秘めて明かしますまい

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

意味:
20歳になったばかりのその子の櫛デスクと流れるようなふさふさした黒い髪の青春のうつくしさよ

みだれ髪を京の島田にかへ(え)し朝ふしてゐ(い)ませの君ゆりおこす

意味:
乱れた髪を島田に結いなおして、朝にそれまで寝ていてくださいね、と言った相手の君を揺り起こす

鉄幹と一夜を共にした、その朝のことを詠んでいます。

病みませる うなじに細き かひな巻きて 熱にかわける 御口を吸はむ

意味:
腕枕して、病んでいらっしゃるあなたの乾いた口を吸ってしまいたい

風邪を引いたという鉄幹に送ったもので、お見舞いの歌なのでしょうか。

春みじかし 何に不滅の命ぞとちからある乳を 手にさぐらせぬ

意味:
人生は永遠ではないのだからと、自分の張りのある胸にあなたの手を導く


家庭があるなどという矮小な見識を越えて、命の短さを説く晶子。

初句切れといい、二句の強意、「ちからある」の意志の強さを同時に示す、乳の形容。
「さぐらせぬ」の使役が晶子の主導する姿勢を表しています。

これほどのたくさんの歌が短期に生まれたのは、やはり恋愛が、それも道ならぬ恋を何とか通そうと、鉄幹に向けて書き送ったことが背景にあるでしょう。

その歌を見る相手が、同時に恋愛の相手であることから、おのずから歌も良きものとしようという鍛錬がなされ、歌を読むことでまた恋慕の意思も確固たるものともなったと思われます。

 

歌集『みだれ髪』背景

『みだれ髪」が出たのは、作者名は与謝野姓になる前で、まだ「鳳(ほう)晶子」となっていました。 

明治時代のことで、奔放大胆な官能的な表現と、解放された自我の感情過多の表白は世を驚かせ、ほとんどスキャンダルめいた印象を与えたので、賛否両論の渦に巻き込まれたといいます。

けして、最初から高い評価をストレートに得たというわけではなかったのです。

というのは、当時の新詩社の歌は、独特な新しいスタイルを持ち、その頃の晶子の短歌も、新詩社の同人同士でしかわからないような、晦渋な比ゆ的、隠語的表現の空想家が多く、自己陶酔の大げさな身振りに満ちていました。

その難解さが、当時この歌集の斬新な魅力でもあったのですが、のちに晶子は、『みだれ髪」の歌を改作を行いましたが、同時にこの歌集の魅力を切り捨ててしまうことにもなったようです。

当時の歌壇には、自然主義、写実主義の派が明星派との対極にあり対立をしていたわけですが、派の違いはあれ、与謝野晶子の才能は疑うべくもありません。

未発表短歌のニュースを機に『みだれ髪』をまた、新しい興味を持って読み直したところです。

 

 

俵万智さん訳がついた『みだれ髪』。こちらは新版です。

<燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの>与謝野晶子の名作を、俵万智が短歌で超訳! 百年前の恋の陶酔が甦る。

 

田辺聖子さんが描く、与謝野晶子伝。

こちらは渡辺淳一によるもの。







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