森鴎外が短歌を詠むことを好み、自ら観潮楼歌会という歌会を主催したことはよく知られています。
森鴎外と短歌との関わりと作品、「観潮楼歌会」について記します。
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森鴎外の短歌の写本発見
森鴎外が7歳のときに書き写した、自筆の写本が公開されました。
写本で写されたのは、当時の倫理・道徳の教科書「童蒙入学門(どうもうにゅうがくもん)」というもので、鴎外の自筆では現存する最も古いものとみられます。18日から記念館で一般公開されます。
写本は昨年7月、鴎外関係の他の資料と合わせて埼玉県の収集家から購入されたものだといいます。
森鴎外と短歌
森鴎外と短歌の関りは長く、1907年から26回、本郷の自宅の2階の部屋を当てて、「観潮楼歌会」というものを主催したことはよく知られています。
「観潮楼歌会」には、派を問わず実にたくさんの歌人が参加しました。
鴎外はこれを開く目的として、『アララギ』と『明星』の二つを接近せしめ、さらに新詩社とアララギ派とに通じる親交を夢みたと述べています。
逆に言えば、当時それほど「対立」があったことがうかがえるような発言です。
参加したアララギの歌人たち
参加した歌人は、「新詩社」系 の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」(アララギ)派からは、伊藤左千夫と長塚節、さらに斎藤茂吉・古泉千樫 が加わり、熱心な議論がされました。
明治 41年5月には、北海道での新聞記者生活に見切りをつけて上京したばかりの啄木も参加。逝去の4年前のことでした。
鴎外の考えた両陣営の融合は成功しなかったとされていますが、歌人たちへの影響は大きなものでした。
森鴎外の短歌
以下は、森鴎外の短歌です。
まず、塚本邦雄が、「知られざる名作」に挙げている歌から紹介します。
憶ひ起す天に昇る日籠(こ)のうちにけたたましくも孔雀の鳴きし
君に問ふその唇の紅(くれない)はわが眉間なる皺を熨(の)す火か
氷なすわが目の光泣き泣きていねし女の項(うなじ)を穿(うが)つ
わぎもこが捕へし蝶に留針をつと刺すを見て心をののく
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をさな子の片手して弾くピアノをも聞きていささか楽む我は
うまいより呼び醒まされし人のごと丸き目をあき我を見つむる
おのがじし靡ける花を切り揃へ束に作りぬ兵卒のごと
掻い撫でば火花散るべき黒髪の縄に我身は縛られてあり
かかる日をなどうなだれて行き給ふ桜は土に咲きてはあらず
とこしへに飢えてあるなり千人の乞児に米を施しつつも
み心はいまだおちゐず蜂去りてコスモスの茎莖ゆらめく如く
わが魂は人に逢はんと拔け出でて壁の間をくねりて入りぬ
愚の壇に犠牲ささげ過分なる報を得つと喜びてあり
或る朝け翼を伸べて目にあまる穢を掩ふ大き白鳥
慰めの詞も人の骨を刺す日とは知らずや黙あり給へ
一曲の胸に響きて門を出で猛火のうちを大股に行く
一夜をば石の上にも寝ざらんやいで世の人の読む書を読まむ
寡慾なり火鉢の縁に立ておきて暖まりたる紙巻をのむ
我詩皆けしき臟物ならざるはなしと人云ふ或は然らむ
我足の跡かとぞ思ふ世々を歴て踏み窪めたる石のきざはし
狂ほしき考浮ぶ夜の町にふと燃え出づる火事のごとくに
君が胸の火元あやふし刻々に拍子木打ちて廻らせ給へ
好し我を心ゆくまで責め給へ打たるるための木魚の如く
此星に来て住みよりさいはひに新聞記者もおとづれぬかな
今来ぬと呼べばくるりとこち向きぬ回転椅子に掛けたるままに
重き言やうやう出でぬ吊橋を渡らむとして卸すがごとく
世の中の金の限を皆遣りてやぶさか人の驚く顔見む
雪のあと東京といふ大沼の 上に雨ふる鼠色の日
突き立ちて御濠の岸の霧ごめに枯柳切る絆纏(注:はんてん)の人
汝が笑顔いよいよ匀ひ我胸の悔の腫ものいよいようづく
美しき限集ひし宴会の女獅子なりける君かかくても
防波堤を踏みて踵を旋さず 早や足蹠は石に触れねど
脈のかず汝達喘ぐ老人に同じと薬師云へど信ぜず
夢なるを知りたるゆゑに其夢の醒めむを恐れ胸さわぎする
惑星は軌道を走る我生きてひとり欠し伸せんために
勲章は時々の恐怖に代へたると日々の消化に代へたるとあり
写真とる一つ目小僧こはしちふ鳩など出だすいよよこはしちふ
貌花(注:ひるがお)のしをれんときに人を引くくさはひにとて学び給ふや
ことわりをのみぞ説きける金乞へば貸さで恋ふると云へば靡かで
厭かれんが早きか厭くが早きかと争ふ隙や恋といふもの
此恋を猶続けんは大詰の後なる幕を書かんが如し
善悪の岸をうしろに神通の帆掛けて走る恋の海原
日常的な題材、そして「恋」のことなど。
歌会を主催した鴎外が短歌を十分楽しんでいたことをうかがわせる作品がたくさん残されています。
森鴎外の命日は7月9日。鴎外忌と呼ばれています。