梶井基次郎の忌日は、代表作品の小説『檸檬』にちなみ「檸檬忌」と呼ばれます。
梶井基次郎は、昭和の私小説作家で感覚的に鮮烈な私小説作品を残して、惜しくも31歳の若さで肺結核で亡くなりました。
梶井と母との臨終のエピソードをご紹介します。
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梶井基次郎 檸檬忌
梶井基次郎は昭和7年、肺結核で31歳で亡くなりました。
きょうは、その忌日、檸檬忌です。
梶井基次郎の短歌
外面(とのも)にはレールのきしる音のしてカフェーの二階時計鳴り出ぬ
上記は梶井基次郎が手紙に書き送ったという短歌。
梶井基次郎の代表作は『檸檬』ですが、その小説の舞台となった、丸善の近くにあるカフェーで詠まれたということが、レールの音から推測されるとのことです。
梶井の短歌の作品は、ほとんど紹介されることはありませんが、後述する梶井の母ヒサは、梶井に百人一首や万葉集、その他の歌人の歌を早くから読ませていたことが伝わっています。
梶井基次郎は不思議な作家
梶井基次郎は「感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し」(Wikipedia)たといわれています。
梶井の作品はいずれも短編で、本一冊にまとまる程度のものであり、作家として大成するより前に亡くなったわけなので、いわゆる「マイナーポエット」には違いありません。
しかし、死後次第に評価が高まり、「今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている」という、不思議な作家なのです。
作品は、いわゆる私小説ですが、同じ私小説でも、太宰治や坂口安吾たちの作品とは異なる系列にあります。
私小説の中でも「心境小説」と言われるべきもので、ストーリー性があるものではなく、自分の内面を描くような、感覚的で詩人的な独特の作品群です。
梶井基次郎の母ヒサ
昔は結核で亡くなる人が相当多く、文学者もその例に漏れず、歌人でも正岡子規、その弟子の長塚節、中村憲吉は皆結核で亡くなっています。
梶井基次郎の母ヒサは、気丈な人で、梶井が結核に倒れてからも看病し、無論息子の死をも看取ることになりました。
親として、若い息子を看取るというのは無類の苦しみがあったに違いありません。
梶井基次郎の看取りの日
当時は病院ではなく、自宅での看取りも普通でしたので、梶井も自宅で療養し、そのまま亡くなったわけです。
亡くなるときは、呼吸器の病でもあり、苦痛は激しく、前日の23日には、苦しみのあまり、弟に薬をもらってきてもらうようにせがんだといいます。
弟は薬を買って帰って来て、梶井に飲ませましたが、息苦しさはどうにも楽にならない。
梶井は苦しさをこもごも訴えたり、なお、他の薬を頼んだり、医師を探して連れてきてくれと言って、枕元に居る母と弟を困らせていました。
梶井の母が言った言葉
すると、梶井の母ヒサは、とうとう次のように梶井に言ったそうです。
「お前もまんざら普通の人ではないのだから、もういい加減に往生しなさい」
この言葉を私はどの本で読んだのか忘れてしまいました。あらためて今日の忌日に探そうとしたら、見つかりませんでした。
その代わりに、母ヒサが
「もうお前の息苦しさを助ける手当は全て尽してあるが、まだ悟りが残っている」
と言ったと、ヒサが梶井の「臨終記」という文章に自ら記してあるものが見つかっただけでした。
いずれにしても、母が言葉をかけると、それを聞いた梶井は、
「解りました。悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」
と答えたというのです。
そして、
「お母さん、もう何も苦しい事はありません。この通り平気です。しかし、私は恥かしい事を言いました。この一帯を馳け廻つて医師を探せなどと無理を言いました。どうぞ赦して下さい」
と言ったと、母上は記しています。
命の間際の、なんという尊い母子の言葉であったでしょうか。
梶井基次郎を悟りに導く
親にとって自分の子どもが死ぬということは、死が間近に迫っていることがわかってはいても、到底受け入れられることではありません。
梶井の母上は、梶井を落ち着かせるためとはいえ、気丈で愛情深い人だったのだろうと思います。
しかし、それ以上に、私が深く感じ入ったのは、最初に母が言ったと読んだ「お前も、まんざら普通の人ではないのだから」というくだりです。
子どもの死を受け入れた上、息子を「悟らせる」、つまり、安らかな気持ちに導くために言ったその言葉は、梶井の気持ちを静めるのに十分なものでした。
この「まんざら普通の人ではない」ということは、当然、梶井が作家であったことを差しているでしょう。
そして、母にそのように言われて、母の意を文字通り悟った梶井は、その時に死を受け入れるのです。それはなぜだったのか。
何が梶井にとって、死の苦痛を越えさせるものだったのでしょうか。
梶井基次郎の死の受容
梶井にとっては、単に有能な人であるといわれただけではなく、「普通の人ではない=良い作品を書いた」ということに重点があると思います。
それだけ心血を注いだ作品を書いたということと、その満足と矜持が、死をも乗り越えるということ、その梶井の意識に面すると、人の仕事、人の生とは何とも尊いものだと思わされるのです。
そして、それを母上が、死に瀕している自分の息子に言ったこと、それが梶井を落ち着かせるのに、何よりの言葉であると知っていたことにも驚かされるのです。
つまり、母上は、梶井の文学の価値を十分に理解していたと思われるのです。
梶井の作品の評価と受容、それを示すことが、文学者梶井、そして息子の死の受容でもあったのです。
文学者にとっての死と作品
私がこのエピソードで思うのは、文学者にとっての死とは、肉体の死ではないということです。文学者にとっての作品とは、魂を継ぐものに他なりません。
丸善の店頭に積み上げられた檸檬の黄色の鮮やかさーーー生ある時の梶井が、その網膜を通して映し出したものを、私たちは、まるで梶井の目が自分に乗り移ったかのように、心に思い浮かべることができます。
梶井が捉えた像は、そうして、いつでも万人の中に再現されるのです。
一つの曲のように、何度でも繰り返しその感興を再現できること。そして、ひとりではなく誰もがそれを等しく味わえること。さらに、その感興を人と共有して、それについて話し合えること。
作品化するということは、そういうことなのだと思います。
今日梶井の忌日の「檸檬忌」の3月24日、梶井基次郎の忌日のエピソードについて、思い出すことを書いてみました。
まだお読みでない方も、詠んだこともある方も皆さんが『檸檬』を手に取られますように。
あの日の梶井のように。あるいは、いつかの私のように。