万葉集の「梅花の歌(ばいかのうた)」の序文「初春の例月に気淑く風和ぐ」から取られた言葉が「令和」です。
この部分の含まれる、大伴旅人による、序文の原文の全文と、そもそも序文とは何かを解説します。
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万葉集の構成
「万葉集」というのは、古代の和歌を集めた歌集の名前です。
昔は詩というものが、長歌や短歌のことだったので、歌集というのは詩集と同じです。
万葉集には4500の歌
「万葉集」は全部で20巻あり、全部で約4500首の歌が収められています。
各歌は、相聞(読み:そうもん 恋愛の歌)、雑歌、挽歌というカテゴリー別になっており、さらに、その中に章題がついて和歌が並んでいます。
「梅花の歌」の正式な章題
「梅花の歌」の正式な章題は
「太宰氏大伴卿の宅にして宴する梅花の歌三十二首」というものです。
その後に「故郷を思ふ歌二首」が続き、「後に梅花の歌に追和する四首」が続きます。
「梅花の歌」はそのようにして並んでいる、万葉集の第五巻の章の一部分に当たります。
「梅花の歌」序文とは
「梅花の歌」には、そのようにして三十二首の歌が掲載されているわけですが、短歌が出てくる前に、歌ではない文章がついています。それが「序文」です。
万葉集での「梅花の歌」の構成
つまり梅花の歌の構成を再度示すと、下のような順番で並んでいます。
タイトル 「太宰氏大伴卿の宅にして宴する梅花の歌三十二首」
↓
梅花の歌 序文
↓
梅花の歌三十二首
↓
故郷を思ふ歌二首
↓後に梅花の歌に追和する四首
「梅花の宴」序文で梅花の宴の様子
「梅花の歌」の序文には、そこに梅の花の短歌を集めた事由がまず述べられています。
「大伴旅人(おおとものたびと)が、31人のお客を招いて、庭に咲く梅を読み比べるという歌宴を催しました」という意味の文章で序文が始まっています。
そして、その酒宴が、「梅花の宴」というものです。
「そこで詠まれた歌が、主人の私の歌を含めて三十二首あり、それらがこの歌です」というのが、この序文の意味ですが、「今から歌を詠もう」というように実況風に、また出席者への呼びかけとして記されています。
梅花の宴のはいつどこで?
時は天平2年 西暦で730年春、場所は九州の太宰府の公邸ということも記されています。
招かれたのは、九州一円の役人や医師、陰陽師といった人たちでした。
それでは、実際の序文を見てみましょう。古い言葉や漢字は難しいので、最初わかりやすく現代の漢字に置き換えて記します。
梅花の歌三十二首の序文原文
それでは、「令和」の元となる言葉を含む。梅花の歌序文を見てみましょう。
梅花の歌三十二首 序を并(あわ)せたり
天平二年正月十三日に、帥老(そちろう)の宅(いえ)に集まり、宴会をのぶ。
初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)に披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香に薫る。
しかのみにあらず、曙の嶺に雲移りて、松は羅を掛けて盖(きぬがさ)を傾け、夕べの岫(くき)に霧を結び、、鳥は穀(こめのきぬ)の封(と)ざされて林に迷う。
庭には新蝶舞い、空に故雁帰る。ここにおいて、天を蓋(きぬがさ)にし地を坐(しきい)にして、膝を近づけ盃を飛ばす。
言(こと)を一室の内に忘れ、衿(ころものくび)をを煙霞の外に開く。淡然として自らほしいままにし、快然として自ら足る。
もし翰苑(かんえん)にあらざれば、何をもってか心を述べん。詩に落梅の篇を記す。古今とそれ何ぞ異ならん。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。
「梅花の歌」序文原文の現代語訳
(序文の原文の現代語訳)
天平2年正月13日、帥老の宅に集まって、宴会を開く。あたかも、初春の良き月、気はうららかにして風は穏やかだ。
梅は鏡台の前のおしろいのような色に花開き、蘭は腰につける匂い袋のように香っている。
そればかりではない、夜明けの峰には雲が動き、松は雲の薄絹をかけたように傘を傾ける。
また、夕の山洞には霧が立ち込め、鳥はその霧のとばりに封じ込められたように、林の中に迷い遊ぶ。
庭には生まれたばかりの蝶が舞い、空には去年の雁が北へ帰ってゆく。
さてそこで、 天空を屋根にし大地を敷物としてくつろぎ、膝を寄せ合っては、酒杯を飛ばすごとくに応酬する。
一堂に会しては言葉も忘れ、外の大気に向かっては心をくつろがせる。
さっぱりとして各自気楽に振る舞い、愉快になって満ち足りた思いでいる。
文筆によらないでは、どうしてこの心の中を述べ尽くすことができようか。
漢詩に落梅の詩編が見られるが、古(いにしえ)も今もどんな違いがあろう。
ここに庭の梅を題として、短き歌を試みようではないか。
この原文はどのように記されているのかというと、万葉仮名という、漢字によるひらがなのようなもので記されているのです。
というのは、その頃は、ひらがなというものが、まだなかったのです。
なので、この頃は一つ一つのひらがなに漢字を当て字のように使うことで文章を読んでいたのです。
参考までに、その原文がどんなものかも下にあげます。
梅花の歌序文の万葉仮名原文
「梅花の歌」序文部分の、万葉仮名の原文は下の通りです。
梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。
この「萃于帥老之宅、申宴會也」の部分は、例えば、「帥老(そちろう)の宅(いえ)に集まり、宴会をのぶ」というように、この字面で詠んでいた、それが当時の万葉集の表記だったのですね。
令和の原文部分、「初春の良き月、気はうららかにして風は穏やかだ」のところは、万葉集での実際は、下のように記されていたのです。
初春令月、氣淑風和
この部分は、たった8文字だけなんですね。
ひらがながが考えられて実際に広く使われるようになったのは、このもっとずっと後の、9世紀ごろのことになります。
新元号の令和の期限の万葉集は、本当に昔のものだったんですね。
「梅花の歌三十二首」の序文と、その現代語訳については以上です。
短歌32首の部分は、前の記事
万葉集の梅の短歌・和歌 新元号「令和」の由来と「梅花の歌」32首
序文の作者とされる大伴旅人については
万葉集「梅花の歌」序文の作者の歌人「大伴旅人」とはどんな歌人か
の記事の方でご覧くださいね。