大伴旅人はどんな人? 万葉集「梅花の歌」序文の作者と「令和」の舞台  

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大伴旅人はどんな人? 万葉集「梅花の歌」序文の作者と「令和」の舞台

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新元号が「令和」の出典は、万葉集の第5巻「梅花の歌」の序文にあります。今度の元号「令和」は文学的な、美しい言葉です。

「令和」を含むその序文を記したのは、大伴旅人だと言われていますが、大伴旅人とはどんな歌人であったのでしょうか。大伴旅人についてお伝えします。

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万葉集の歌人 大伴旅人

大伴氏というのは、古代における大豪族であり、大伴氏は万葉集の成立に重要な関係を持っている家です。

万葉集の大伴姓の歌人で、特に有名なのは、旅人の妹の、大伴坂上郎女(おおともさかのうへのいらつめ)、旅人の子どもの大伴家持(やかもち)などがいます。

「文」「武」の一族 大伴氏

大伴氏の家は、「文」の家であり、そして「武」の家という、ふたつの役割を持っていました。

「文武両道」という言葉がありますが、今でこそ、「文」と「武」は、相異なるジャンルのように思われていますが、古い時代においては、力のある言葉を持つということも、「武」の一つとされていました。

大伴氏というのは、その両方に優れた、力のある一族であったのです。

「梅花の歌」の詠まれた九州へ赴任

大伴旅人は、727年頃、大宰帥(だざいのそち)として、筑紫、今の九州に赴任することになりました。

任地に着いたその年の夏、妻を失い、730年に、大納言となって上京するまで、筑紫の地で歌作に励みました。

同じ頃、山上憶良も又、筑前守を務めていたため、同地で共に歌を詠みながら、筑紫歌壇の主役をつとめたといいます。

特に酒を讃え、遠い九州で都を思う望郷の念を詠んだ歌など、知識人らしい才能を発揮する歌をはじめとして、帰京の翌年、67歳で亡くなるまで、たくさんの歌を残しました。

大伴旅人短歌一覧:
大伴旅人の『万葉集』短歌一覧 梅花/鞆の浦/讃酒歌/亡妻挽歌/望郷

大伴旅人の家で「梅花の歌」の宴

元号「令和」の元となった「梅花の歌三十二首」は、梅の花を詠む宴会での歌の記録であり、その宴会が開かれたのが、九州の地にある、大伴旅人の家でした。

「初春の令月にして気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭(らん)は珮(はい)後の香を薫らす」

 

「天平二年正月十三日、令月に風の和ぐこの良き日に、梅をお題として、大伴邸の宴に集まった人たちが詠んだ歌を書き留めたもの」という序文と共に、それらの歌が記録され、万葉集におさめられたのが、「梅花の歌」とその序文です。

 

大伴旅人が「序文」作者には諸説あり

もっとも、この序文の作者については、これまで様々な説があり、「現在ではほぼ旅人作に傾いている」と記してある本もあります。

あるいは、今後の研究によってわかることもあるかもしれませんが、歌を詠んだ宴会の場所が旅人の家であり、歌会を催した企画側が記したことは間違いがないとされています。

 

「梅花の歌三十二首」の中の大伴旅人の歌

「梅花の歌三十二首」の、「主人」と記されたもの一首が次の歌です。

我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも 「主人」

(わが園に梅の花が散る。空から雪が流れてくるのだろうか)

 

続く「追和する四首」も、大伴旅人の作と言われています。

残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも 849

(残っている雪に混じっている梅の花よ 早く散ってくれるなよ)

雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも 850

(雪の色を奪って咲いている梅の花は いま満開だ 見る人があればよいのに)

我がやどに盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも 851

(我が家に今満開の梅の花が散りそうになった 見る人があれば良いのに)

梅の花夢に語らくみやびたる花と我れ思(も)ふ酒に浮かべこそ 852

(梅の花が夢で語りかけるには「みやびな花だと自分でも思います。お酒に浮かべてくださいな」)

 




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