新元号「令和」のおかげで万葉集への関心が高まりました。しかし、一方で元号としての「令和」について様々な論議があります。
今朝の新聞では、万葉学者であり、斎藤茂吉の研究家で、このブログでもご紹介している品田悦一氏が、万葉集の「愛国」のコンセプトが政治に利用された歴史を述べて、理解を求める内容の記事がありました。
以下に、内容をわかりやすく要約してお伝えします。
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万葉集の歴史
万葉集は、奈良時代に編集された、日本現存最古の歌集です。
ずっと古典として親しまれ、最初からその位置にあったように思われていますが、品田氏は次のように説明をしています。
明治時代に見出された万葉集
明治時代に近代国家を作っていく時、欧米列強や中華文明への劣等感から、知識人は国家と一体となって「国民詩」を探したそうです。
中国には、漢詩というものがあり、外国にも詩はたくさん見られるが、日本にはそれに該当するものがないということですね。
そこで、それまでは無名に近かった万葉集が「我が国の古典」として、初めて取り上げられました。
逆に言うと、明治時代のそこまでは、万葉集はほとんど知られていなかったのです。
私たちにしても、万葉集は長いことずっと読まれてきたように思っていますが、そうではなかったということなのですね。
万葉集は「庶民」の歌か?
そしてよく万葉集は「庶民の歌」と言われていますが、その点はどうなのでしょうか。
「貴族など一部上流層」
今回の新元号発表後の首相談話には「天皇や皇族貴族だけでなく、防人や農民まで幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ」とありますが、品田さんは それに対して
貴族など一部上流層に止まったというのは現在の研究では通説と言えます
と述べています。
万葉集には東歌と身分の低い人が選んだとされる歌がたくさんありますが、詩の形式が整いすぎていることなどから、必ずしも庶民が自ら詠んだ歌とも言えないようです。
編者が編纂の際に手を加えたものもあるということでしょう。
なので、庶民が詠んだということが、即誤りとは言えないかもしれませんが、その通りでもない。
それどころか、「庶民」を強調する認識自体が、「明治国家の要請に沿って人為的に作り出された幻想だった」とも品田さんは言うのです。
「忠君愛国」の見本となった万葉集の歌
また万葉集では、全4500首あまりのほとんどは男女の向上や日常を歌っているのに、その中の数十種の勇ましい歌だけが、昭和の戦争期に忠君愛国の見本として使われました。
よく知られる万葉集の大伴家持の長歌部分、
海行かば水浸(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍王の辺にこそ死なめのどには死なじ
は軍国歌謡となって、戦争に付随して宣伝をされるものとなったのです。
他にも
今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は
(現代語訳) 今日からは身を顧みることなく、大君(天皇)の強い御楯となって我は出で立つのである。
などもよく知られています。
念のために云うと、短歌として悪いということでは全くありません。
左翼も政治利用
では、万葉集は戦争を推進する側にだけ使用されたのかと言うとそうではなく、敗戦後は左翼の皮が万葉集を「国民歌集」としてを利用したとしています。
今度は逆に国の強制に対して防人が抗った歌や、父母と別れる悲しみを選んだ歌などを利用したのです。
平和な時も、万葉集を天皇から庶民までの作品が収められた国民的歌集であるかのように想像すること自体が、国民国家のイデオロギーであることを知ってほしい(同)
品田さんの著書は絶版となっていましたが、新装版が4月正に緊急復刊されるそうです。
また、国文学研究資料館のロバート・キャンベル館長は、万葉集の政治利用を踏まえながら、
戦時中などの不幸な時代に(万葉集が)再解釈されてきた過程を忘れてはならないが、1300年を経てもなお歌集が残り、これだけの人の心を浮き立たせるという結果は評価に値する
と話しています。