ちる花は数限りなしことごとく光をひきて谷にゆくかも/上田三四二代表作桜の短歌  

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ちる花は数限りなしことごとく光をひきて谷にゆくかも/上田三四二代表作桜の短歌

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当ブログの「桜の短歌」でご紹介した、上田三四二の代表作として取り上げられる「ちる花は数限りなしことごとく光をひきて谷にゆくかも」の鑑賞と解説です。

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読み:ちるはなは かずかぎりなし ことごとく ひかりをひきて たににゆくかも

作者と出典:

上田三四二 歌集『涌井』

意味:

散っていく桜の花は数に限りがない そのすべてが光を引きながら風に吹かれて谷をくだっていく

表現技法など:

句切れ…二句切れ
数限りなし…【連語】 数えられないほど多い
ことごとく… 残らず すべて みな の意味の副詞
かも…詠嘆の助動詞

 

解説と鑑賞

一連「花信」の中で、「死はそこに 抗ひがたく 立つゆえに 生きている一日一日はいづみ」と共に、上田三四二の代表作といわれている作品。

第三歌集『涌井』に収録

42歳で結腸癌を病み、作者が死を意識したということが前提にあります。

この「花」というのは、他の多くの歌が「花」と言い表すように、桜のことです。

一連「花信」28首の前の詞書

28首の最初に

「吉野山の山麓温泉ヶ谷に元湯なる鄙びたる一軒家あり。花にやや遅きころ、ゆきて留まること四日。」

の説明文がついているとおり、吉野山の桜を見に訪れた際の歌です。

この歌の前後を引くと

中千本上千本の花のふぶきひとつまぼろしを伴ひゆけば

ちる花は数限りなしことごとく光をひきて谷にゆくかも

満山の花ぞさびしき矢倉過ぎなほゆけば水分(みくまり)の社が見えつ

となっており、前後の歌と比べると、上下の歌は「中千本」「上千本」「水分(みくまり)の社」といった、吉野の山の場所や固有名詞が入っています。

しかし、この歌にはそれがないため、実景を元にしたものではあっても、幽玄な雰囲気をまとわせており、上下の歌とも趣が異なるものとなっています。

それと前の歌の「ひとつまぼろし」の内容は明らかでなく、あるいはその「まぼろし」が、「ちる花」の情景に、「いのちへの愛惜」を浮かび上がらせるものとして、作者が意識をした示唆を加えている可能性が大きいです。

日本古来の他の短歌にもありますが、桜の花が「いのち」を象徴するモチーフとして扱われ、前の歌に「まぼろし」とあるように、実際の景色ではあっても、「いのち」のダブルイメージを重ね合わせたものなのでしょう。

この時、作者は自らの病で死を意識するわけですが、なぜ、自分だけではなくて、「ことごとく」なのか、というと、作者の職業は医師であったためです。

 

剖検記録を検索しをり浮びくる浮びこぬ顔なべてかなしく

「剖検」とは解剖の記録のことで、結核の専門医として、多くの人の死に接してきていたため、桜の花を単体、すなわち自分の病や生死だけではなくて、生死を普遍的なものとしてとらえる姿勢があったと思われます。

この後の作者の著作の中には死生観に関するものもあり、この歌には、個の生死を普遍化する捉え方、哲学的思想のより情緒的な面が表されていると思われます。

上田三四二自身の歌集説明

上田自身がこの歌集を振り返って述べるには

「死と直面したことによって、研ぎ澄まされた感覚が、自然の持つ再生力と強く響き合い、思想的にも作風の上に独特の深まりを見せている」

ということで、作品にある思想性を持たせることを意識していたようです。

佐佐木幸綱評

『涌井』について、佐佐木幸綱は

「自分自身の死が視界にそそり立って以来のあらゆるものに対する素直な慈しみの思いを素直に歌って、多くの読者の感動を呼んだ」

『涌井』は第9回迢空賞を受賞しています。

作者がいのちへの愛惜をこめた歌の数々が収められています。





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