新元号「令和」の季節がさわやかな5月で良かったですね。皆さまは連休はゆっくりされたでしょうか。
令和の由来となったのは、「梅花の宴」短歌が詠まれた宴会だったのですが、その宴はなぜ、どのような意図で開かれたのでしょうか。
そして、令和の出典である序文作者の大伴旅人が倣った「蘭亭序」とは何かを解説します。
スポンサーリンク
大伴旅人と短歌
「梅花の歌」序文作者の大伴旅人(おおとものたびと)の属する大伴一族は、文武両道に優れ、大伴家は武門の家であり、同時に「もののふ(武人)の歌を伝え、もののふの歌を詠むという役割を与えられていたとみられています。
その旅人が九州大宰府に大宰帥(だざいのそち)、長官として赴任、同地にはこちらも有名な山上憶良(やまのうえのおくら)がおり、そこでさかんに歌を詠みました。
関連記事:
万葉集とは何か簡単に解説 一度にわかる歌人と作品
漢詩にも詳しかった大伴旅人
旅人は、中国の本「漢籍」にも詳しく、中国の「文選(もんぜん)」などからも影響を受けました。
そのうち、書物で読み知った「中国文人の詩宴のようなものをここでもやってみよう」ということになったのです。
当時の九州の歌詠みのグループ「筑紫歌壇」には、山上憶良がおり、憶良の方は中国に5年ほど赴任したこともあり、中国語も話せて、読み書きもできたので話が早かったことでしょう。
その詩宴というのが、「梅花の宴」だったのです。
「蘭亭序」に倣った梅花の宴と序文
その梅花の宴と序文の元となったのが「蘭亭序」だと言われているのですのですが、蘭亭序というのはいったい何のことなのでしょうか。
蘭亭序とは?
「蘭亭」というのは、中国の故事で、「蘭亭序」は書家の王義之(おうぎし)という人が書いた序文のことです。
内容は、中国東晋の永和9年、353年に、文人の理想郷である「蘭亭」に41名の詩人が集い、曲水に杯を流して、詩を賦したというものです。
簡単に言うと、皆が集まって宴会をして、詩を詠んだというもので、やはりそれを元と下梅花の宴によく似ています。
王義之の序文が「蘭亭序」
さらに、王義之はそれに序文をつけた。それが「蘭亭序」です。
そして、大伴旅人は、その「蘭亭」の集まりに倣って、「梅花の宴」を開き、また王義之に倣ってそれに序文をつけた。それが「梅花の宴32首」とその序文なのです。
ちなみに、この「蘭亭序」というのは、現在は書、習字のお手本となっているものだそうで、行書を勉強する人は、必ずこれに倣うという有名なものだそうです。
梅花の歌32首の詠み手たち
梅花の歌32首については、詠み手は皆、専門歌人ではなくて、普通の職業の人、つまり、朝廷の政治家のような人たちです。
その人たちが、歌の会をするから、そこで歌を詠むことになったのです。
なので、旅人と山上憶良の歌以外は、それほど上手とは言えませんが、歌人でもない一般の人が皆歌を詠めたということそれ自体が、今と違ってめずらしいとも言えます。
また、旅人以外の歌も、素朴で味があり、宴会の雰囲気などを伝えてもいます。
32名の歌を集めた「梅花の宴」
とにかくも、そのように主客併せて32名が一堂に会し、庭に咲く梅の花を見て一首ずつを詠んだというのは、大きな出来事でした。
そもそも梅の花自体が、今は日本の花のように思われますが、そうではなくて当時中国から渡って来たばかりの花であったということです。
なので、当時はたいそうめずらしいものであって、歌の題材にするに十分な素材だったのですね。
「梅花の宴」の文学的意義
この「梅花の宴」を、詩人の大岡信さんと嵐山光三郎さんは、単なる宴会ではなく一つの文学イベントとしてみています。
嵐山さんは「後世の歌合(うたあわせ)や連歌、さらには俳諧(連句)の先駆けとして新しい時代を開く快挙」だったと言っています。
和歌の共同鑑賞のスタイル
また漢詩ではこのような試みはあったが、「ヤマトウタ」としては、梅花の宴は画期的な催しであったともいえます。
時代のここから先は、共同制作して共同鑑賞のスタイルが日本の詩歌詩を貫く流れとなっていき、これは万葉集の他の部分もそうですが、今の短歌鑑賞においても受け継がれているとも言えなくはありません。
「梅花の宴」はその一番最初のきっかけともなるものでした。
大和言葉によるヤマトウタ
そして、中国の蘭亭序や帰田賦(きでんのふ)などの様々なモチーフやアイディアを取り入れているとはいえ、この梅花の宴は「大和言葉によるヤマトウタの日本史上初めての登場だった」と嵐山さんは言っています。
つまり、大伴旅人の書いた梅花の歌32首の序文は、「漢文」体で書かれているわけですが、その後の皆の歌32首は、日本語による、日本独自の短歌であるのです。
文学イベントとしての「梅花の宴」
招待客の政府の官吏にとってみれば、宴会の一種ではあったでしょうが、大伴旅人の意図は、ひとつの文学的なイベントを、都を遠く離れた辺境の土地筑紫において自分が主催となって開催することであったと思われます。
大伴旅人の梅花の宴の序文というのは、そのような文学的な夜明けとも言うべき画期的なイベントの開催と成功を告げるべく、単なる序文というには、高らかで華やいだものです。
関連記事:
万葉集の「梅花の歌32首」序文全文と現代語訳
大岡信の大伴旅人評
上に述べたように、参加者は官吏であって短歌をたしなむ人たちではあっても、専門歌人ではなく、大伴旅人にしてもそうなのですが、大岡信さんは
「旅人の作品が群を抜いていい。丈の高さといい、清爽の気のみなぎるいさぎよさといい、旅人が生まれついてのよきうたびとであることがわかる」
と評しています。
成功した梅花の宴
梅花の歌の構成は旅人の「序文―梅花の歌32首―故郷を思う歌―後に梅の花に追和する4首」を合わせて、一連の「梅花の歌」としています。
大岡さんは、その付け足しの理由を「この時の宴がよほど主人の旅人にとっては印象的かつ満足すべきものであったためだろう」として、旅人が上機嫌で歌を追加したと想像しています。
終りに
「梅花の宴」は、テレビなどでは、風流、風雅を楽しむ宴会というように紹介されていましたが、そこで歌を詠んで記録しようと旅人が呼び掛けたのには、田舎の筑紫にも自分が種をまいて文学の花を咲かせようという試みであったのかもしれません。
また、旅人がそのように短歌にいそしんだ背景には、妻の死や、大伴一族の勢力の弱まり、自分の老いや、都を離れてのさびしさなど、きわめて人間的な動機があったことも見逃せません。
それにしても、せいぜい都へ届けばいいなと思って旅人の記載した歌の数々が、千三百年も経っては熱心に読まれていると、旅人が知ったらどんなにびっくりすることでしょうね。