「月がきれいですね」というのは、夏目漱石が「アイラブユー」英語の"I love you"に当てた訳語だというエピソードが伝わっています。
茂木健一郎氏が書いていたエピソードをご紹介します。
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夏目漱石「アイ・ラブ・ユー」の訳は?
新聞の「よむサラダ」に、茂木健一郎氏が書いていたのは次のようなもの。
「アイ・ラブ・ユー」の訳は夏目漱石によると「月がきれいですね」だったそうである。日本語には「愛する」という観念がないのだという。
ネットで調べたところ、学校教師時代に学生が「私はあなたを愛しています」と直訳したのに対して、
「そんな言葉は日本語に存在しない。『月がきれいですね』とでも訳しておくのがよい。」
と指導したらしいのです。
当時は、英語の映画の翻訳もなかったし、英文のテキストも今のようには手に入りませんでしたから、今のような「愛しています」の定番の訳はなかったのですね。
洋画のアイ・ラブ・ユーは何と訳す?
一方、洋画でよく家族間で言い交わされる「アイ・ラブ・ユー」は、「頑張って」と訳してもいいと読んだことがあります。
恋人間ばかりでもなくて家族、親子でも交わされる言葉なので、その方が自然な訳かもしれませんね。
よく使われる I’m proud of you
家族間では、「アイ・ラブ・ユー」よりも、「I’m proud of you.」というのをよく聞きます。
映画シックスセンスの最後の方に、亡くなった祖母の言葉を少年が母親に伝える場面がありました。
映画「シックスセンス」のラストシーン
この映画の最後で、祖母の墓に尋ねた「お母さん、私を愛していた?」への少年の口を借りての祖母の答え、「I’m always proud of you.」を聞いた母親は涙を流します。
このお母さんは、、自分のお母さんが自分を愛していてくれたかを不安に思っていたんですね。
そこで、お墓に行って「お母さん、私を愛していた?」と聞いたのです。
そして、「シックスセンス」の少年は、死者と会って言葉を交わすことができる特殊能力を持っているため、お祖母さんがそれについて「ええ、もちろんよ」と答えたことを知っている。
それを、お母さんに伝言をするわけなのですが、それが英語の原文だと「I’m always proud of you.」でした。
訳はともかく、どちらも相手を肯定する意味合いが強いのは変わらないようですね。
とにかく英語では、愛している、愛していたかということを、言語的に告げたり聞いたりする習慣があるのはまちがいないようです。
それに比べて日本語ではどうなのでしょうか。
「I love you」を「愛してる」の訳は誤り?
もうひとつ、これに類するエピソード。
日本人とアメリカ人のハーフのエッセイスト・Nina Li Coomes(クームス仁奈)さんは、「I love you」を「愛してる」とするのは言語学的には正しくても、文化的には誤訳であり、日本語には「I love you」にあたる言葉はないのだと書いています。
クームスさんがパートナーのジャックさんに「“I love you” は日本語でどういうのか」と尋ねられたので、「愛してる(Aishiteru)」だと答えたときのことです。
「愛している」への違和感
すると、ジャックさんは、クームスさんに、「愛している」というようになったのだそうだが、クームスさんは温かさと同時にフレーズのぎこちなさへ寒気を感じると気が付いたといいます。
その訳には「I love you」に含まれる「I」や「you」にあたる部分が存在せず、「I(愛している主体)」および「you(愛されている対象)」が明言されないのです。
そのため「愛している」は、能動的ではなく、2人の間にボンヤリとした感情が存在する状態を伝えているかのように聞こえるというのです。
あるいは、よく言ったとしても、まるで「積極的な義務として愛を伝えているように聞こえる」とクームスさんは指摘したのだそうです。
適しているのは「大好き」の訳
それでは、もっと適した訳はないのかというと、 クームスさんは「I love you」を日本語で言う時のよりふさわしい表現は「大好き」だと提唱しています。
特に恋人同士よりも、肉親に伝える時は、この言葉が自然に感じられるという人は多いでしょう。
日本での「愛」は非言語的な表現
また、興味深いことに、日本語にも「好き」や「愛」と言う言葉はあるが、愛情の表現は非言語的だと言われています。
たとえば、「母の愛」は、「おふくろの味」として言及される。それから、主体的に「惹かれる」と表現するよりも、「運命の赤い糸」といった別な要因があるかのような表し方をすることが多いです。
また、バレンタインデーやホワイトデーに贈り物をし合うことで気持ちを確かめた、「七夕」などのエピソードや行事もそれにつながるものだといいいます。
はっきり口でいうのではなくて、もっと漠然とした方法で「愛」を伝えているのですね。
悲恋の「七夕」も非言語的
言われてみると、七夕は、たとえばロミオとジュリエットのように「ロミオロミオ、あなたはどうしてロミオなの」などという、当事者の感慨を表すべき言葉はまったく伝わっていない。
「雨が降ったので、会えなくてかわいそう」とか、2人が真向かって立つ情景などはイメージされているが、織姫が二人の邂逅の少なさを嘆いたりすることは、あまり考えられていません。
2人の献身的な愛は「言葉を交わすこと」ではなく、「物語」によって、語られているといってよく、根底には、西洋との大きな愛の表現の違いがあるようです。。
早くから、海外留学をして英文に親しんでいた漱石には、そのような文化性の違いが理解されていたのでしょう。
その上で、それがまた日本語のよさでもあるということを、漱石も気が付いていたのかもしれませんね。