「つばくらめ空飛びわれは水泳ぐ一つ夕焼けの色に染まりて」馬場あき子の有名な短歌代表作、教科書にも掲載されているこの歌の意味と現代語訳、句切れや倒置など文法、表現技法を解説、鑑賞します。
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読み:つばくらめ そらとびわれは みずおよぐ ひとつゆうやけの いろにそまりて
作者と出典
馬場あき子 『早笛』
現代語訳
燕は空を飛んで、私は水の中を泳ぐ。同じ一つの夕焼けの色に染まって
句切れと文法解説
・「泳ぐ」の三句切れ
・対句 … 「つばくらめ空飛び」と「われは水泳ぐ」
・倒置法 … 「一つ夕焼けの色に染まりて」
・字余り … 「一つ夕焼けの」が字余り
表現技法の解説
一見簡単そうな、叙述の中に、さまざまな工夫が凝らされており、それによって、文が「歌」として成り立っていることがわかる。
初句「つばくらめ」
上句、575までは、燕と我との対比である。
「つばくらめ」と「われ」の対比のためには、対句の他にも、「つばめ」の3文字ではなく、つばめの古語で「つばくらめ」の5文字が用いられているところに注意。
「つばめ」ではなく、「つばくらめ」と初句いっぱいに埋める5文字を使う言葉によって、鳥である燕の印象がくっきりと強まる。
意味は「つばめは空を飛び」の意味になるのだが、「は」や「の」の助詞を使わないことで、読み手は「つばくらめ」でいったん間を多くため、初句切れにも似た効果が生じている。「つばくらめ・空飛び」を「つばめは空を」と詠み比べてみよう。
句またがりの効果
燕とわれとの違いを際立たせるために「空」と「水」とのシチュエーションの違いが用いられているおり、空飛びは、本来「空を飛び」なのであるが、「を」を省略、あえて語を詰めて「空飛びわれは」と、「われ」をも2句に含めている。
燕とわれとのくっきりとした違い、鳥と人との対比が目的なのであるが、意味と音韻の句切れの上では、「われ」は燕の側にはみ出しており、燕との時間的な距離を縮めており、燕とわれが、鳥と人とが、実は近いもの、親しいものであるかのような錯覚を持たせている。
「空飛び」の助詞の「を」の省略は、「水泳ぐ」でも、同様に「を」を省略してきっちり対置され、鳥と人との違いを述べながら、互いは並べられ、似せられている。
そのような、効果の布石ののちに「一つ夕焼けの色に染まりて」と続くため、人と燕が全く違うものとして、対比が述べられていた上句は、そうではなく、燕との一体化を強めるものだったことがわかる。
また、「一つ夕焼けの色に染まりて」も同じ、「夕焼けの・色に」においても、句またがりがあり、4句と結句は、一続きで一息に読まざるを得ないため、4句と結句の一体化は、すなわち、燕とわれとの一体化に重なるものでもある。
燕とわれとの一体化の要因は、「夕焼けの色」なのであるが、「一つ夕焼けの」の8文字の字余りは、「色に染まりて」7文字を際立たせ、読むものの腑に落ちるものとなっている。
一首の鑑賞
散文ではなく、詩文において、「鳥」と「人」とを述べるのに、「鳥は空を飛ぶ。私は水を泳ぐ」と述べたとすると、それは鳥と人との行為や生態を述べた事実の叙述ではなくて、作者の考えがあるということになる。
燕とわれの間に歌人がなぜ共通性を見出したのかはこの歌だけではこれ以上はよくわからないが、何かのきっかけで、あるいは、作者には元からそのような思いがあって、それを歌に表したということになろう。
「つばくらめ空飛びわれは水泳ぐ」はもちろん、実際の風景として対になったものではないのだが、どちらも具体的な情景で、容易に想像をすることができるものだ。
燕の飛ぶ下を私が泳いでいるというのは、壮大な光景であり、その全体が夕焼けの色をしているというのは、きわめて絵画的な情景である。
一枚のフレームにぴたりと収まるような、視覚的な効果を持つこの一首を、十分味わって鑑賞したい。
馬場あき子の他の歌
あやまたず来る冬のこと黄や赤の落葉はほほとほほゑみて散る
幾春(いくはる)かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり
夜半(よは)さめて見れば夜半さえしらじらと 桜散りおりとどまらざらん
真夜中にペットボトルの水を飲むわたしは誰も許していない
馬場あき子プロフィール
馬場 あき子は、東京都出身の歌人、文芸評論家。
短歌結社「かりん」主宰。日本芸術院会員。
朝日歌壇、岩手日報「日報文芸」、新潟日報読者文芸選者。古典や能に対する造詣が深く、喜多実に入門、新作能の制作も行っている。
また、『鬼の研究』など民俗学にも深い知識を持つ。本名:岩田暁子。夫は歌人の岩田正。―馬場あき子 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
――Wikipediaより