万葉集と百人一首両方に収録された和歌のうち、「春過ぎて夏きたるらし白妙の衣干したり天の香久山」の改作部分について解説をします。
万葉集と百人一首両方に収録された和歌には、他にどんなものがあるでしょうか。
同じ歌なのに中には、両歌集において、言葉が違うのはどうしてなのでしょうか。
万葉集と百人一首に重複する和歌をあげて、言葉の違い、作風の違いについて考えます。
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万葉集と百人一首の違い
万葉集と百人一首、どちらもとても有名な古い時代の歌集ですね。
どちらも、皆が詠んだ和歌を集めて記され、一冊の本、昔でいう巻物にまとめられたというものであることには変わりません。
この二つの違いはというと、編纂された時代の違いです。
万葉集の成立時期
万葉集というのは7世紀後半から8世紀後半にかけて作られた、日本に現存する最古の和歌集です。
様々な身分の人たちが詠んだ4500もの詩歌が収録されています。
759年まで130年間の長い期間に渡るため、歌を集めて記した人は、誰なのかははっきりしていませんが、大友家持が行ったとも言われています。
百人一首の成立時期
一方、「百人一首」はというと、正式名称は「小倉百人一首」。
平安時代から鎌倉時代にまとめられ、歌を選んで、まとめた人は、藤原定家という人です。
宇都宮蓮生が、別荘である小倉山荘のふすまに飾るために、定家に色紙の作成を依頼。
定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。
この色紙は、13世紀前半に完成したといわれています。それがのちの歌がるたの原型となったのですね。
藤原定家が、100人から一首ずつ選んだというところで、「百人一首」となったわけですが、定家が選んだのが、飛鳥時代からの歌が含まれるために、万葉集にも載っている歌が、百人一首にも選ばれた次第になっているのです。
ただし、この場合は、万葉集から選ばれたのではなくて、万葉集に掲載されている歌が、「勅撰歌集」という巻物にも掲載されていたため、定家は、その中から歌を選んだといわれています。
万葉集と百人一首両方にある和歌・短歌
小倉百人一首を作った藤原定家が、万葉集にもある和歌をそれまで伝えられた歌集から選んで、両方に掲載された共通する万葉集と百人一首に共通する和歌は下のようなものです。
春過ぎて夏きたるらし白妙の衣干したり天の香久山 持統天皇(万葉集)
田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に 雪は降りつつ 山部赤人(万葉集)
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂(万葉集)
秋田苅る借廬(かりほ)を作り吾が居れば衣手寒し露ぞ置きにける 作者不詳 のち天智天皇(万葉集)
そして、上の4首の中には、百人一首では、言葉が違っているもの、それと作者が異なっているものがあります。
このページでは、このうちの「春過ぎて夏きたるらし白妙の衣干したり天の香久山」について、違いの解説をします。
山部赤人の作品については下の記事に
万葉集と百人一首に共通する和歌の違い「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りつつ」
春過ぎて夏きたるらし白妙の衣干したり天の香久山
夏の到来を詠った持統天皇の有名な歌として、古くから親しまれている作品です。
春過ぎて夏きたるらし白妙の衣干したり天の香久山 (万葉集)
春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香久山(百人一首)
「きたるらし」と「来にけらし」。「干したり」と「ほすちょう」と言葉が二か所違っている部分があります。
「きたるらし」と「来にけらし」
きたるらしと来にけらしの品詞分解は下の通りです。
「きたるらし」
動詞「来る(きたる」」と「らし」の推量の助動詞。
「来にけらし」
動詞「来(く)」
「に」…完了の助動詞「ぬ」の連用形
「けらし」…過去推量の助動詞
意味はどちらも「きたようだ」の意味です。
「干したり」と「ほすてふ」
もう一か所の「干したり」と「ほすてふ」には意味の上でも違いがあります
干したり
干す の動詞と、「たり」存続を表す過去の助動詞
ほすてふ
「ほすてふ」読みは「ほすちょう」
この部分を新仮名で書くと、「ほすという」
干すの動詞に「という」言葉がついており、伝聞を表します。
つまり、作者の持統天皇がその目で見たのではなくて、人からそのように伝え聞いたという、イメージを表す歌となっているのです。
この和歌の意味
一首の意味は
春が過ぎて夏が来たようだ。香具山に白い夏の衣が干してあるところを見ると
改作の理由
「来たるらし」という表現は響きが強く、古今集以降の歌では、「たをやめぶり」(万葉集の「ますらをぶり」に対して女性的であること)が胸とされ、好まれていたので、「けらし」と改作されたのではないかという意見があります。
「新古今集」には、この歌を元歌とした、「ほのぼのと春こそ空に来(き)にけらし天(あま)の香具山(かぐやま)霞(かすみ)たなびく」もあるので、要するに「来にけらし」の表現が普通になっていたともいえます。
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む
この歌は、「拾遺和歌集」で柿本人麻呂の歌とされた歌で、百人一首にも選ばれて収められているものです。
もっとも柿本人麻呂作といっても、それまでの人麻呂作とはやや趣が違うので、あるいは、違う作者であるのかもしれません。
元々この歌は、前半に比喩を含むもので、「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の」というのは、一人寝の夜が長いということを表す「長々し」を修飾する部分で、序詞(じょことば)と言われる部分です。
万葉集にもないわけではありませんが、このような比喩はやはり定家の時代にも好まれるものと見えて、改作されることなく、そのままの形でこの歌が百人一首にも選ばれています。
秋の田の仮庵の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ
この歌は「後撰和歌集」で天智天皇作とされた歌で、百人一首にも選ばれました。
元々の歌は、万葉集の「秋田刈る仮庵を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける」(万葉集)10-2174 とされています。
もっともこの歌は、作者は未詳ですので、百人一首の方も天智天皇作ではないといわれています。
またこの歌に関しては、万葉集の「寒かったので、露が云々」という理屈でなく、「わが衣手は露にぬれつつ」の改作の方が、言葉が細切れでなくすっきりしています。
「あらみ」は、庵の屋根の茣蓙のような「苫(とま)があらい、という意味で、そこから雨が降ってくるということを表していますが、これも元歌にはない部分で後から付け加えられたと思われます。