田子の浦ゆうち出でてみればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りつつ
万葉集の代表的な歌人の一人、山部赤人が富士山を詠んだものとして、万葉集の代表作であり古くから知られている有名な和歌です。
山部赤人の代表作短歌を鑑賞、解説します。
スポンサーリンク
読み:たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりつつ
作者
山部赤人 万葉集 3-318 新古今集675 百人一首4番
関連記事:
山部赤人の代表作和歌一覧
現代語訳
田子の浦の海岸を先の方まで歩いて行ってそこから見ると、真っ白に富士山の高嶺に雪が降り積もっていることだ
句切れと語の解説
・「うち出づ」の「うち」は接頭語。ここでは「出る、現れる」の意味
・「田子の浦ゆ」の「ゆ」は、「~より、から」の位置を表す助詞
・「降りける」の「ける」は、連用形の連用止め
・句切れはありませんので、句切れなし
解説と鑑賞
この歌は「富士の山を望む歌一首併せて短歌」という題詞を持つ、長歌の反歌です。
「田子の浦ゆ」の「ゆ」は、「田子の浦を通って、田子の浦から」の経過点を表すもので、富士をどこから見たかを初句に入れており、作者の移動に伴う視点の変化にまずふれています。
そ富士山の見えない場所を通って、視界のきく開けた場所に出た瞬間に、純白の雪に覆われた富士の高嶺に対する感動を表現。
長歌に続いて、視点の移動と、時間経過を加味し、山部赤人の代表作傑作であるのはもちろん、万葉集の代表作と言ってもいい作品です。
「富士の山を望む歌一首」の長歌
長歌の方は、
「天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放けみれば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は」
現代語訳
「天地が別れた時から神々しくて高い貴い、駿河にある富士の高嶺を大空はるかに振り仰いで見ると、空を渡る太陽の姿も隠れ、照る月の光も見えず、白雲も行きかね、時となく常に雪は降っている。語り継ぎ言い継いで行こう、この富士の高嶺は」
長歌と反歌の短歌の違い
長歌の方は「振りさけ見」、つまり、振り返ってみたのに対し、反歌の方は、「うち出でて」見た富士の姿がそれぞれ詠われています。
空間的な大きな視点、さらに、晴れの日も、月の出る夜と、時間的な幅のある、大きな範囲での捕らえ方です。
富士が登場する瞬間の感動
反歌の方では、見えない空間を経由して見える空間に出てみた、その視界の変化と富士の登場のし方によって、純白の雪をいただく富士の高嶺を仰いだ瞬間の讃嘆と感動に絞られて表現されています。
短歌においては、作者山部赤人は、富士の美を最も有効に描き出すために、見えない時間と空間を最も効果的に設定したのです。
この短歌の最も大きなポイントはそこにあります。
万葉仮名
この反歌部分の万葉仮名での表記は下の通り
兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
田子の浦について
静岡県の駿河湾奥の砂浜が田子の浦。古くは富士川河口の海岸を指しています。
万葉集の他にも「更級日記」や「蜻蛉日記」など多くの古典に記される富士展望の名所でもあります。
現在はこの歌の歌碑が建っています。
田子の浦の場所
新古今集・百人一首との言葉の違い
この歌は、新古今集と、百人一首においては、「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」と改作されました。
それによって、「田子の浦を通って」との長歌との対比の、富士を見る視点の違いがなくなってしまっています。
富士の雪については、真っ白な雪をあらわす「真白」は「白妙」の布に置き換えられて間接的に比喩で「白い」ことを表現する迂遠な表現となりました。
さらに、「雪は降りける」が、「降りつつ」と現在形になってしまったことで、富士の山頂の雪ではなく、雪景色の中の富士とも見えるような情景いなってしまい、山頂の真っ白な雪との鮮烈な印象が打ち消されてしまうことになりました。
ただし、新古今和歌集の時代においては、「幽玄」に重きが置かれており、上記のような表現や景色が好まれていたため、改作の歌の方がよしとされたのは間違いありません。
そのために、そのような改作がなされたと考えるのが正しく、この歌についてはそれぞれの時代背景を踏まえた上で、長歌を含む、原作、改作と共に鑑賞するのが良いと思われます。
斎藤茂吉もこの点については、
「新古今で、「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」として載せたのは、種々比較して味わうのに便利である。」
と付記しています。
万葉集に共通する短歌の違いについて詳しくは下の記事に
万葉集と百人一首に共通する和歌の違い「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りつつ」
斎藤茂吉の『万葉秀歌』解説より
「田子の浦ゆ」の「ゆ」は「より」という意味で、動いてゆく詞語に続く場合が多いから、ここは「うち出でて」に続く。
また「ゆ」は見渡すという行為にも関連しているかは、「見れば」にも続く。つまりここで赤人はなぜ「ゆ」を使ったのかというに、作者の行為・位置を示そうとしたのと。「に」とすると、「真白にぞ」の「に」に邪魔をするという微妙な点もあったのであろう。
赤人のここの長歌も簡潔でうまく、またこの反歌は古来人口に膾炙し、叙景歌の絶唱とせられたものだが、まことにその通りで赤人作中の傑作である。―出典:斎藤茂吉『万葉秀歌』
山部赤人の他の和歌
縄の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島榜ぎ廻る舟は釣しすらしも(3-357)
武庫の浦を榜ぎ廻る小舟粟島をそがひに見つつともしき小舟(3-358)
我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ(3-432)
沖つ島荒磯の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも(6-918)
若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴たづ鳴き渡る(6-919)
み吉野の象山きさやまの際の木末にはここだも騒く鳥の声かも(6-924)
ぬば玉の夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く(6-925)
玉藻刈る辛荷にの島に島廻(しまみ)する鵜にしもあれや家思はずあらむ(6-943)
島隠り我が榜ぎ来れば羨しかも大和へ上る真熊野の船(6-944)
風吹けば波か立たむと伺候に都太の細江に浦隠り居り(6-945)
明日よりは春菜摘まむと標し野に昨日も今日も雪は降りつつ(8-1427)
百済野の萩の古枝に春待つと居をりしうぐひす鳴きにけむかも(8-1431)
あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも(8-1425)
恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり(8-1471)
山部赤人とはどんな歌人
山部赤人 (やまべのあかひと) 生没不詳
神亀元年 (724) 年から天平8 (736) 年までの生存が明らか。国史に名をとどめず、下級の官僚と思われる。『万葉集』に長歌 13首、短歌 37首がある。聖武天皇の行幸に従駕しての作が目立ち、一種の宮廷歌人的存在であったと思われるが、ほかに諸国への旅行で詠んだ歌も多い。
短歌、ことに自然を詠んだ作はまったく新しい境地を開き、第一級の自然歌人、叙景歌人と評される。後世、柿本人麻呂(かきのもとの-ひとまろ)とともに歌聖とあおがれた。三十六歌仙のひとり。
山部赤人の代表作短歌、この歌は、万葉集でもぜひ知っておいてもらいたい歌の筆頭です。
他の万葉集の秀歌も引き続きご紹介していきます。