石川啄木の家族と経済事情 盛岡中学退学の背景  

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石川啄木の家族と経済事情 盛岡中学退学の背景

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石川啄木は歌集「一握の砂」で世に出るまでに、何度も挫折を経験しています。

その最初の大きな問題であった、盛岡中学校の退学ですが、その背景には啄木一家の経済的な事情があったと思われます。

石川啄木の退学をめぐる家庭事情についてお知らせします。

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石川啄木の自己像

23日の朝日新聞に歌人の山田航さんが、石川啄木について、「ダメ人間エピソード自体が、実は意図的に振る舞って構築した自己演出だった可能性がある」と指摘しました。

文学は当時の最先端ポップカルチャーで、啄木は当時のポップスターであり、啄木の”ダメっぷり”は、作られたものだったと説明しています。

それについては、啄木の借金や女性関係、虚言などの幾分かは本当であったと思います。

しかし、それ以上に、啄木がそうならざるを得なかった、啄木の家の事情と両親との関係については、これまで言及されたものは少ないようです。

 

石川啄木の家族の経済的問題

啄木の挫折のその最も早い時期の大きな問題は学業の怠りと、盛岡中学の退学問題です。

今までは、堀合節子との恋愛と文学熱に理由があるといわれていますが、実は、啄木の家族の問題と家庭の経済的な問題が大きく関わっています。

盛岡中学を退学した啄木

退学の発端となったのは、4年生の3学期の期末試験での不正行為、つまりカンニングが発覚されたことでした。

そして、それ以前から、啄木は出席日数が足りず、ほとんど学校に行っていなかったようです。

この間の啄木の様子は、有名な「不来方の」を含む一連に伝わっています。

教室の窓より遁(に)げて/ただ一人/かの城址(しろあと)に寝に行きしかな

不来方の/お城の草に寝ころびて/空に吸はれし十五の心

カンニングの不正事件

カンニングについては啄木の責というほかありませんが、何しろ授業には出ていないのでそうするしかありません。

年譜によると出席が104時間、欠席が207時間だったというのですから、後半はほとんど学校に出ていなかったということなのでしょう。

退学を告げられた後の啄木の短歌、

血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋

元々は「神童」と呼ばれた啄木にとってはたいへんに不名誉な事でした。

ではなぜ啄木はこのように学業を怠けるようになってしまったのか。

啄木の歌には

師も友も知らで責めにき謎に似るわが学業のおこたりの因

という歌がありますが、「おこたりの因」という言葉を自ら用いた通り、何か理由があったに違いないのです。

文学と恋愛に熱中?

これについては、これまではっきりしておらず、文学と恋愛に熱中したためと推測されてきました。

しかし、啄木の研究家、岩城之徳氏によると、啄木の怠けの元は、結局、啄木の家、住職をしていた父の寺に、上級学校へ進学するだけの経済的な余裕がなかったことをその理由に挙げています。

神童と呼ばれて、成績も優秀であった啄木は進学ができないことをがわかって、学業への興味を失い、自暴自棄になってしまったと思われるのです。

 

啄木の父の寺の経済事情

啄木の父、石川一禎(いってい)は、曹洞宗の禅寺、宝徳寺の住職でしたが、長年宗費を納めなかったという理由で後に免職となっています。

つまりは使い込みというこですが、その時には借金を繰り返しており、上級学校には進めないということが、啄木にもわかったということなのでしょう。

たとえば、同じ盛岡中学の友人の金田一京助は、生家は富裕な米穀商で生活苦を知らず、東京帝国大学に進学しています。

一方、啄木は、寺の僧侶で、借金以外に他の収入の方途もない父であれば、自分にはその選択はないということが分かったとしても自然な話です。

檀家が学費を打ち切って退学へ

さらに、啄木が進学をあきらめざるを得ない事情は、啄木一家の収入源が檀家からの寄進であったことによります。

この頃の啄木の学費を出していたのは、これも父本人というより、檀家の方でした。

啄木の不行状によって、学費の援助が止められたので、「家事上の或都合(あるつごう)」で、最終的に退学となりました。

もし、啄木が高等学校に進学をしていたとしても、檀家がこれまで以上の多額の援助を申し出るのでなければ、送金は難しかったと思われます。

一家の生活が啄木の肩に

そののちは、啄木の父一禎は、宗費の滞納が元で寺を罷免され、不名誉なばかりか、一家の生活が啄木の方にかかってきます。

啄木は、翻訳家になろうと上京をして体を壊したり、アメリカ移住を考えて詩人の野口米次郎や、カリフォルニアに住んでいた盛岡中学校時代の友人に手紙を送ったりもしています。

しかし、節子と結納後のことでもあり、両親の反対にあうなどして実現しませんでした。

とうとう啄木は、結婚をした他にも、収入のない両親を抱え、文学で身を立てることを考えたようです。

結婚を翌年に控えた啄木が、詩集「あこがれ」を刊行したのは、文学熱ばかりではなく、そのような経済事情に裏打ちされたものだったのです。




-石川啄木

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