石川啄木の妻、旧姓堀合節子は、啄木の亡くなった約1年後、28歳で啄木と同じ結核で亡くなりました。
天才歌人を献身的に支えた妻節子について、啄木の妻を詠んだ短歌を交えながらまとめます。
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石川啄木の妻 堀合節子
石川啄木の妻、旧姓堀合節子は啄木に終生添い遂げました。
石川啄木ある意味、天才的な歌人とはいえ、家計は常に貧しく、啄木の母である姑とも争いが絶えませんでしたが、啄木がまだ岩手にいる若者だったころから、詩集を送るなどして、詩人になりたい啄木の志を支えました。
しかし、病に倒れた啄木を献身的に看取りながらも、啄木の死後1年後には節子も同じ病で倒れるという、啄木と共に、薄幸の生涯を送りました。
石川啄木の妻節子の短歌
石川啄木の、節子を詠んだ短歌で最も有名なものは下の短歌です。
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ
読み)ともがみな われよりえらく みゆるひよ はなをかいきて つまとしたしむ
最初の歌集「一握の砂」所収の短歌。
この歌の現代語訳は、「友だちが皆ことごとく自分より偉く見える日だ そんな日には花を買ってきて妻と親しみ、その寂しさを紛らわすことだ」というものです。
自分の心が折れるような日にも、妻と楽しく過ごそうというもので、「花を買いきて」が妻の喜ぶことをしてあげようとする、作者の思いやりも感じられます。
この歌の詳しい解説は、下の記事にありますので、ご覧ください。
啄木は、お金が入ると芸子遊びをするなど、常に妻を大切に接したわけではなさそうです。しかし、啄木にとって、妻は相思相愛の妻であり、なくてはならない存在でした。
一握の砂から、啄木の短歌と共に、妻との歴史を振り返ります。
石川啄木14歳と節子の出会い
石川啄木が、後に妻となる堀合節子に知り合ったのは啄木が14歳の時。
堀合家は士族であり、父は官吏、節子も裕福で、育ちの良い女性であったようです。
盛岡中学校に通っていた啄木は、姉夫妻の家に滞在した時に近くに住む盛岡女学校の生徒であった折り合い節子と知り合ったと言われています。
当時の啄木はすでに文学に熱中、 そのためもあって、中学校を退学になりましたが、しっこの愛情は変わらず啄木に詩集を送ったことも伝わっています。
啄木は節子の励ましをよりどころとして、処女詩集「あこがれ」を刊行。
啄木は、明治39年12月26日の日記には、啄木は節子との恋を「一生に一度の恋」として
「我らは、嘗て恋人であった。そして今も恋人である。この恋は死ぬる日まで」
と記しています。
花婿啄木のいない結婚式
そしていよいよ雪ことの結婚式となりましたが、啄木は東京からの帰宅の際に仙台に下車。
なぜかその結婚式には間に合わず、結局、結婚式は花婿啄木のいないまま遂行されました。
当然のことに節子は周囲から、結婚を中止するよう勧められましたが、
私たちの行為はそんな軽薄なものではない。如何なる不信、悪評があろうとも私の決意に変わりはない。
と節子自らがいったとおり、毅然とした態度で結婚式を済ませたといいます。
盛岡で新生活
そして啄木夫妻は、盛岡市内で新しい生活を始めるわけですが、啄木の両親は寺を追われて収入がなく、ここから啄木一家は、終生貧しい生活から抜けられませんでした。
わが妻のむかしの願ひ 音楽のことにかかりき 今はうたはず
現代語訳は「私の妻の昔の願いは音楽に関することであったが、今は貧しい生活につかれて、音楽のことをすっかり忘れて歌わなくなっている。」
節子は、バイオリンもたしなみ、啄木の創刊した雑誌に短歌を発表したこともある、才能ある女性でしたが、生活難で勉強を続けることもかないませんでした。
北海道へ移住
啄木はやがて北海道に渡り、道内を転々とする、流離の生活を送ります。それにはもちろん節子も同行しました。
わがあとを追ひ来きて 知れる人もなき 辺土(へんど)に住みし母と妻かな
現代語訳:放浪の旅にある私の後を追ってきて、誰一人として知っている人も無い片田舎に住みついた、母と妻であることよ
母と節子 家庭内の争乱
しかし、啄木の母と節子の関係は極めて悪いものでした。
猫を飼はば、その猫がまた争ひの種となるらむ、かなしきわが家(いへ)
茶まで断ちて、わが平復を祈りたまふ 母の今日また何か怒れる。
啄木が後に、朝日新聞社の編集長に入院を勧められた時も、啄木は「母と妻との円満を欠いている事情もあるのです」と打ち明けて、断ったくらいでした。
節子の家出
というのも、節子は一度、貧しさと家庭の混乱に耐えかねて、家出をしたことがあったからです。
啄木が上京後、本郷、今の文京区の喜之床(きのとこ)という理髪店の二階に間借り、そこに母と節子を呼び寄せて同居したわけですが、二間きりの家であり、無理がたたった節子は身体を壊し、実家へ帰ってしまいました。
啄木は驚いて、親友の金田一京助に文字通り泣きながら相談、その後は、こころを改めて朝日新聞社の校正係として働きます。
その頃の啄木の歌。
はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る
よほど節子の家出がこたえたとみえ、今度こそ一所懸命仕事をした様子が伝わります。
歌集『一握の砂』刊行へ
そして、その歌の約1年後、歌集『一握の砂』が世に出て、啄木は今度こそ、歌人として最前線での出発を切ります。
しかし、念願の歌集が出て、評判は極めて良かったにもかかわらず、長男真一の死、母の死と『一握の砂』の出版に前後して、石川家を不幸が襲います。
そして、とうとう啄木も倒れてしまいます。歌集が出たと言っても、その頃の文芸の出版は、すぐに多額のお金が入るようなものではありませんで、節子の苦労は今まで以上のものがあったと思われます。
啄木一家は相変わらず貧しく、亡くなる1年前、明治45年からは、節子は自分も肺尖カタルと診断されながら、病床にある啄木を看護する日々が続きます。
啄木は、短歌の辞世の歌を詠んだとは伝わっておりませんが、節子の残された短歌は、3首が記されています。
それを記して本記事を終えることとします。
六号の婦人室にて今日一人/ 死にし人あり/ 南無あみだ佛
わが娘/ 今日も一日外科室に/ 遊ぶと云ふが悲しきひとつ
区役所の屋根と春木と大鋸屑は/ わがみる外の/ すべてにてあり
上の歌は、記載に/の記号が入っているため、おそらく節子も、啄木に倣って短歌を三行書きにしたと思われます。
天才啄木の妻として、夫のために自らの命を燃やした節子の、献身の生涯はここで終えられました。
しかし、子どもはもちろんのこと、収入のない両親を抱えた啄木が、それでも文学で身を立てるまでになったのは、なにより節子があったからできたことでしょう。
啄木の作品の中にもこうして見え隠れするのが、啄木短歌の成立に、陰ながら尽力した節子の存在なのです。