斎藤茂太さん、精神科医でエッセイストで、数々の言葉や”名言”を残した人としても知られています。
斎藤茂太さんの父は日本を代表する歌人、斎藤茂吉の長男で、弟が作家の北杜夫です。
きょうの日めくり短歌は、茂太さんの”名言”と、斎藤茂吉が子ども茂太を詠んだ短歌を合わせてご紹介します。
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斎藤茂太さん、精神科医でエッセイスト
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斎藤茂太さんは、本業は精神科医ですが、エッセイストとしても知られています。
父で歌人の斎藤茂吉は、これも精神科医であり、茂太さんの祖父が設立した病院を代々継がれているんですね。
茂太さんの息子たちも、同じく医師で、いわゆる”医師一家”の中の三代目となります。
斎藤茂太さんの画像
あきらめないことだ。一度あきらめると習慣になる。
斎藤茂太pic.twitter.com/GtrRCRmkQF— 偉人名言bot―フォロバ100%― (@kakugen_bot_tm) November 13, 2020
斎藤茂太さんプロフィール
斎藤茂太さんは、1916年生まれ。
斎藤茂吉との関わりでいうと、茂吉は婿養子で、茂太さんの誕生の後、妻輝子と結婚、斎藤家に入籍しました。
茂太さんは、その後、陸軍大尉として太平洋戦争にも従軍しています。
北杜夫の小説『楡家の人々』によると、飢えに苦しみながらもなんとか帰国。
戦争で焼けてしまった病院を立て直し、院長職に就きました。
晩年は、精神科医の見識も生かしながら、一般向けのエッセイを執筆。
その中で、人々を励ます言葉をたくさん残されました。
斎藤茂太さんの名言
名言としてよく知られているものを拾ってみると
「いい言葉は、いい人生をつくる」
これはそのまま本のタイトルになっています。
他に
あきらめないことだ。一度あきらめると習慣になる。
の他、
自分で自分をあきらめなければ、人生に「負け」はない
も皆に好まれる言葉であるようです。
私の好きなのは
他人に花をもたせよう。自分に花の香りが残る
ですね。
素敵な言葉だと思います。
北杜夫さんほど文学にはこだわらなかったようですが、文筆の才も父譲りかもしれません。
斎藤茂吉の茂太を詠んだ短歌

田村茂(明治42年-昭和62年) - 文藝春秋新社 現代日本の百人(1953年刊), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46950002による
最初に描いたように、茂太さんの父が、歌人の斎藤茂吉です。
斎藤茂吉の生涯については
斎藤茂吉の作品と生涯 特徴や作風「写生と実相観入」
北杜夫によると、斎藤茂吉は、子煩悩だったとのこと。
茂太さんは長男でもあり、父茂吉がとてもかわいがっていた様子が伝わる歌が残されています。
茂太さんが最初に歩み始めた時の歌
をさなごは畳のうへに立ちて居りこの幼子は立ちそめにけり
「立ちて居り」「立ちそめにけり」(初めて立ったのであるよ)の繰り返しが、子どもが歩んだ姿を目撃した親の喜びを伝えています。
他にも
悲しさを歌ひあげむと思へども茂太を見ればこころ和むに
短歌で悲しい歌を歌おうと思っているのだが、茂太をみると可愛いので、自然に気持ちがほころんでしまう。
この歌では長男の名前がそのまま使われています。
をさなごをこころにもちて帰りくる初冬のちまた夕さりにけり
家に帰ると茂太がいると思って、寒い夕方を心の励みにして帰宅するなど、偉大な歌人といえども、子どもを思うのは、人一倍であったようですね。
をさなごの頬の凍風(しもやけ)をあはれみてまた見にぞ来しをさな両頬(もろほほ)
茂太さんがしもやけになってしまったので、かわいそうでならず、何度も見に来る様子や
をさなご児の飯(いひ)くふ見ればこのゆふべはつかのハムをうばひ合ふなり
当時貴重品であったのでしょう、手に入ったハムを競って食べる子どもたちの微笑ましい食卓の風景もみられます。
短歌というのはいつまでも残って、まるで写真のように取り出して見られるのが良いところですね。
斎藤茂吉と斎藤茂太、北杜夫については下の記事にも書いていますので、併せてお読みください。
きょうの日めくり短歌は、斎藤茂太さんの忌日にちなみ、斎藤茂太さんの”名言”と、斎藤茂吉の短歌をご紹介しました。
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