パンの短歌といえば、最も新しいもので思い出すのは「つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる」
歌人、木下龍也さんの歌集タイトルになったパンの短歌です。
4月12日はパンの記念日、11月28日はフランスパンの日、きょうの日めくり短歌は、パンの短歌をご紹介します。
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作者:木下龍也 歌集「つむじ風、ここにあります」
処女歌集のタイトルになった作品。
木下氏の作品は、どちらかというとエッジの利いた短歌が特徴でもあるのですが、この歌は、「そっと教えてくれる」がほのぼのとした感じを醸し出しています。
上句の「つむじ風」と「菓子パン」の相関関係は、短歌の中には示されていません。
このような短歌の修辞法は「省略」といいます。普通の省略ではなくて、立派な技法のひとつ、単純そうで、なかなか高度なテクニックです。
これによって、文字として表されているのではない部分が歌に含まれていることとなり、それは読み手のいわば脳内にあるわけで、外の短歌と頭の中にあるものが、一体となって一首の意味が構成されることになりますね。
そういう不思議な連結による一体感がこの歌にはあるわけです。
また、菓子パンの袋が「教えてくれる」の教えることの内容は、示されていませんが、実際には、風が菓子パンの袋を揺らす、あるいは、道に転がっていくというような、自然現象です。
そして、自然現象ですので、菓子パンの袋や風が作者に対して糸を持っているわけではないのです。
それを、義人化して「…くれる」というところに、風やパンの袋ではなく、作者の心そのものの優しいあり方が暗示されます。
さらに、風やものと一体化する作者のいくらか孤独な心持ちも察せられます。
外の小さなものへおのずと注意が向かい、それらに「くれる」として連帯を求める背景にあるさびしさも伝わるでしょう。
近代短歌のパンの短歌
他に思い出すパンの短歌をあげておきます。
近代短歌からは
麺麭(パン)を噛むひまも書物に眼をさらしみな孤独なり夜学の教師ら 北原白秋
朝けよりおもひ直して黒き麺麭(ぱん)に牛酪(ぎうらく)ぬるもひとり寂しゑ 斎藤茂吉
パンを焼く家の裏口とおもほえて香ぐはしき午後の路地をとほりぬ 佐藤佐太郎
昔のパンは、カタカナではなくて、「麺麭」だったのですね。
「黒きパン」というのは、斎藤茂吉の留学中のライ麦パンのことで、牛酪はバターのこと。
ドイツではバターをたくさん塗って食べるそうです。
佐藤佐太郎は、斎藤茂吉の弟子なのでそれより若く、この時代はさすがに「パン」という表記になっていますが、町のベーカリーらしきものが詠まれています。
斎藤茂吉の作品と斎藤茂吉の作品と生涯 特徴や作風「写生と実相観入」
「パン屋のパンセ」杉崎恒夫のパン
気付きたる日よりさみしいパンとなるクロワッサンはゾエアの仲間 杉崎恒夫
バゲットの長いふくろに描かれしエッフェル塔を真っ直ぐに抱く 杉崎恒夫
歌集「パン屋のパンセ」より。
こちらのパンはどちらもフランスパンの種類です。
「クロワッサンはゾエア」
「ゾエア」というのは、エビとカニの幼虫時代のことを言う言葉のようです。
エビの子どもみたいだなあと思ったら、クロワッサンを見るとそれを思い出すという「さみしい」パンになってしまったという意味です。
バゲットとエッフェル塔
エッフェル塔がプリントされたパン屋さんの袋というのは見たことがありますが、これはフランスからの伝承なのでしょうか。
エッフェル塔も、バゲットも、どちらもまっすぐのまま折り曲げようがないですが、フランスでは、パンをかじりながら帰る人もいるようですよ。
作者杉崎恒夫さんはフランスパンがお好きな方だったようですね。
90歳近くなるまで歌を詠まれておられたようです。
現代短歌のパン
ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた
作者:岡野大嗣
おもいきり即物的な描写を含む作品。
ハムレタスサンドという一つの物体として扱っていたものが、実はそうではないと気が付く瞬間です。
ハムレタスサンドと「パンとレタスとハム」では別物なんですね。
この物体が、たとえばハンバーガーだったら許容できそうにありませんが、「ハムレタスサンド」なら、まあいいかなという感じがします。
おそらくは、偶然の出来事の作者の体験なのでしょうが、このようなことが歌になるという果敢な思いつきが素晴らしいですね。
きょうの日めくり短歌は、フランスパンの日にちなみ、パンの短歌をご紹介しました。
それではまた!
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