短歌・和歌

明恵上人の生活訓「あるべきようは」解説

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明恵上人の「あるべきようは」は、明恵の人生訓・生活訓としてよく知られています。

明恵上人の思想を垣間見る「あるべきようは」について解説します。

明恵上人とは

明恵上人は、鎌倉時代の僧侶です。

短歌を詠む人には有名な「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」の作者でもあり、他にもたくさんの和歌が「明恵上人集」にまとめられています。

※明恵上人の「あかあかや月」の短歌については
「あかあかや月」明恵上人の短歌

明恵上人の生涯

明恵は、1173年(承安3年)1月8日に紀伊国有田郡(現:和歌山県有田川町)で生まれた。父は平重国、母は湯浅宗重の四女。法諱は高弁(こうべん)。

1206年(建永元年)、後鳥羽上皇から栂尾(とがのお)の地(現:京都市右京区梅ヶ畑栂尾町)を与えられ、山中に高山寺を創建した。また、宋から栄西(えいさい)が将来した茶を栂尾山で栽培したことでも知られる。60歳で死去。

数多くの著作を残したが、改新を唱えた法然(ほうねん)を批判した『摧邪輪(ざいじゃりん)』、自身の夢の記録『夢記』が有名である。 ―https://zatsuneta.com/archives/10119a3.html

 

明恵上人の「あるべきようは」の思想

明恵の言葉である「あるべきようは(わ)」とは、以下の言葉です。

『人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり。』

この「あるべきようは」の部分は、「阿留辺畿夜宇和」と記されています。

 

「あるべきようは」の意味

「あるべきようは」は、深みのある言葉なのですが、心の平安を保つ言葉、生き方の指針として、河合隼雄さんが著書『明恵夢を生きる』において、下のように紹介しています。

河合さんによるとこの解釈は

『「あるべきようわ」は、日本人好みの「あるがままに」というのでもなく、また「あるべきように」でもない。時により事により、その時その場において「あるべきようは何か」と問いかけ、その答えを生きようとする』

という意味だそうです。

「あるがままに」ではないというのは、受動的な態度ではないと理解できます。

また、「あるべきように」という、一種の制約を感じさせるものでもないのです。

人生の数々の局面において、自ら問い、自ら出した答えに添って、生きようということ。

そして、そのような心構えを持って生きることで、いたずらに不安がったり恐れたりせずに暮らそうという意味合いも含まれるように思われます。

明恵の夢の記録『夢記』

明恵上人の記したものの一つに『夢記』というのがあります。

これは自ら見た夢の記録で、明恵は生涯にわたって自分の夢を記録しつづけました。

河合さんがこれを「明恵 夢を生きる」によって紹介、解説したため、広く知られるようになっています。

右の耳を切った明恵上人

明恵上人は、20代の頃、本格的な出家を志すに際して、右の耳を切り落とすというエピソードがあります。

その後、その痛みの中で、菩薩の姿を見たということも記していますので、夢を記録しようとしたのは、あるいはそのような体験があったためかもしれません。

いずれにしてもこのエピソードは、明恵の人となりを幾分か伝えるようにも思われます。

「あるべきようは」を詠み込んだ短歌

アララギの歌人の中村憲吉は、明恵を尊敬しており、この「あるべきようは」を詠み込んだ短歌を詠んでいます。

山河に庵(いほ)りし人の起臥(おきふし)のあるべきやうの幽(かそ)けさを思(おも)ふ

これらの短歌の解説は下の記事をご覧ください。

「あかあかや月」明恵上人の短歌と明恵を詠んだ歌人







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