散る桜残る桜も散る桜
良寛は和尚としてだけでなく、短歌をたくさん残した歌人としても知られています。
1月6日は良寛忌、良寛の辞世の句についてお伝えします。
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良寛の短歌
きょう1月6日は良寛の命日である良寛忌。
和歌のすぐれた歌人でもあった良寛の短歌についてご紹介します。
良寛とは
良寛は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶。和歌や漢詩、狂歌、俳句、俗謡に巧みで、書の達人でもありました。
没年は74歳 当時としては長生きとなるでしょう。
良寛(1758‐1831)
江戸後期の禅僧。歌人。越後国(新潟県)出雲崎の人。俗名山本栄蔵。号は大愚。諸国を行脚し各地に漂泊転住、寛政九年(一七九七)故郷の国上山五合庵に身を落ち着ける。書にすぐれ詩にも通じた。生涯著述は行なわなかったが、弟子貞心尼の編んだ歌集「蓮(はちす)の露」などがある。宝暦八~天保二年(1758‐1831)
良寛の辞世の俳句
良寛の辞世の句として伝えられているのは、下の俳句です
散る桜残る桜も散る桜
意味は、「散る桜がある、そして美しく咲いている桜もいつかは必ず散るものだ」というもの。
良寛作だということには議論もあるようです。
また、この俳句は、戦時中の特攻隊でも、隊員たちが用いたとも伝えられています。
「桜」は 「同期の桜」などにもお馴染みの花で、良くも悪くも、古くから「散る」が人生の終りになぞらえて使われてきたためだと思われます。
うらをみせおもてを見せてちる もみじ
意味は、散るときには表も裏も共に見せる紅葉の葉のように、悪い面も良い面も見せて私も終わりに近づいている、ということでしょうか。
最期を看取った、弟子の貞心尼に伝えた句であるということですが、良寛歌集「蓮の露」には、貞心尼「これは御みづからのにはあらねど」と書いてあるので、良寛の作品ではないようです。
しかし、これを最後に伝えたという点では、辞世の句と同様に考えることができるかもしれません。
災難の心得
それと、辞世の句ではないが下の
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候
も、良寛のことばとして、憶えておきたい言葉だと思います。
良寛和尚の短歌
他に、良寛和尚の短歌については、よく知られる手毬唄が有名です。
この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日(はるひ)は暮れずともよし
霞立つながき春日に子供らと手鞠つきつつこの日暮らしつ
つきて見よ一二三四五六七八九の十、とをとをさめてまたはじまるを
この一番下のリズムの良い歌が、手毬唄と言われるもので、それ以外も「てまり」を主題としたものです。
良寛の短歌については、引き続き下の記事をご覧ください。