小林多喜二の命日、多喜二忌。小林多喜二は、石川啄木を愛好、後にプロレタリア文学運動に参加しますが、拷問を受けて死亡したとされています。
きょうの日めくり短歌は、多喜二がなぜ死ななければならなかったのか、その理由と、多喜二の代表作『蟹工船』、プロレタリア短歌についてご紹介します。
小林多喜二はどんな人
小林多喜二は、北海道小樽市出身。
そのため、小樽に滞在した石川啄木の短歌になじみ、自らも短歌を詠んでいたようです。
その後は、プロレタリア文学運動に参加、共産党に入党しますが、昭和8年、築地署に検挙され、拷問死という悲しい死を遂げました。
小林多喜二の『蟹工船』の内容とあらすじ
小林多喜二の代表作は「蟹工船」という小説で、「昭和4(1929)年上半期の最高傑作」と評された作品です。
蟹工船というのは、カニを漁獲し、船上で缶詰に加工する工場施設を備えた漁船のことです。
そこで働く人たちは、劣悪な労働条件下で働くことを余儀なくされ、身体を壊すのはもちろん、怪我をしたり亡くなることもありました。
そのような中で、抑圧をされた工人たちはストライキを企てる、大まかなあらすじはそのような内容です。
小林多喜二の拷問死はなぜ
当時、共産党員とその活動は非合法、つまり、法律に違反するものとして禁じられていました。
そのため、多喜二は2度検挙を受け、二度目は拷問を受けて亡くなりました。
特に二度目は、「作品中の特別高等警察(特高警察)による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった(wikipedia)」と言われています。
病院も特高警察を恐れて多喜二の遺体の解剖を断ったために、死因ははっきりしません。
しかし、遺体の様子からは拷問によるものとの疑いがあったため、遺族が遺体の様子を写真に残し、それが多喜二の死を広く世に知らしめるものとなったのです。
プロレタリア文学とプロレタリア短歌
小林多喜二が参加したプロレタリア文学とは、労働者としての立場で,社会主義ないし共産主義思想に基づいて現実を描く文学のことです。
そして、それは短歌にも広がり、「プロレタリア短歌」という一つのジャンルが成り立ちました。
坪野哲久のプロレタリア短歌
アララギでいえば、坪野哲久はプロレタリア歌人としてよく知られています。
あぶれた仲間が今日もうづくまつてゐる永代橋は頑固に出来てゐら
がらんとした湯槽ゆぶねの中にクビになつたばかりの首、お前とおれの首が浮うかんでゐる、笑ひごつちやないぜお前
プロレタリア短歌作品
他にも
やれこれで明日の朝まで俺の体だとどかりと炬燵へよろけこむ父
佐藤栄吉
工場から女工がなだれ出て来た日暮れの街を奉祝の花電車が通る
岡部文夫
仏壇に光る勲章がなんにならう病む子も母も頼る者なく
中村孝助
娘の賃金が一家の暮らしを背負つてる美談だらけだ俺等の村は
佐々木妙二
プレスにねもとまでやられた一本の指の値が八十円だとぬかす
石塚栄之助
夜業よなべだの副業だのをするだけさせて片かたつ端ぱしから搾り取つておいて、脱ぬけがらはブラジルへ行けだ
林田茂雄
これらの歌から、当時の労働がいかに過酷であったのかが推察され、労働者の困窮した暮らしの様子もうかがえます。
ただ、すべてとは言わないまでも、これらの短歌の詠まれた目的は、あくまで暮らしの苦しさを訴えることが目的であったのでしょう。
松倉米吉の短歌
最後に、プロレタリア文学とは、時代はやや違いますが、労働を詠んだ短歌として、アララギの松倉米吉の短歌をあげておきます。
吾の身の吾がものならぬはかな日の一年とはなりぬ日暮れ待ちし日の
日もすがら金槌をうつそこ痛む頭を巻きて金槌を打つ
指落としし男またあり吾一人煙草休みに日を浴びて居り
わが握る槌の柄減りて光りけり職工をやめんといくたび思ひし
半月に得たる金のこのとぼしさや語るすべなき母と吾かな
投げ出しし金をつくづくと母見居り一間なる家に夕日は赤く
極まりて借りたれば金のたふとけれあまりに寂しき涙なるかも
きょうの日めくり短歌は、多喜二忌にちなんで、小林多喜二の『蟹工船』とプロレタリア短歌をご紹介しました。
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