桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり 岡本かの子  

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桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり 岡本かの子

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桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり 岡本かの子の短歌代表作として知られているのが桜を詠んだこの歌です。

岡本かの子の桜の短歌を解説・鑑賞します。

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桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり

読み:さくらばな いのちいっぱいに さくらかに いのちをかけて わがながめたり

作者:

岡本かの子(1889〜1939) 「岡本かの子全集」より

現代語訳:

桜の花は春の盛りを全生命を傾けるかのうように咲いているので、私も自らの命をかけて真剣に桜を眺めよう

語句の解説

・桜ばな…桜の花のことだが、和歌では桜の花を単に「花」ということが多い

・いのち…下句の「生命」に対応する

・からに…[連語]《準体助詞「から」+格助詞「に」》活用語の連体形に付く。
前の事柄を理由・原因として順当な結果へと続ける意を表す。「…ので」「…ゆえに」

・わが…「わ=吾または我」は、「わ」の一音で代名詞。「あ」と読むことがある。「わが」は「わたしが」の意味。

・たり…存続の助動詞 「てあり」を縮めたもの

句切れと修辞

初句切れ

 

解説と鑑賞のポイント

桜の花は、大変豪華に枝を埋めて咲きますが、間もなく散ってしまいます。

植物は皆そうとも言えますが、桜は木の大きさが大きいだけに、花の咲いているときとない時との、その前後の視覚的なコントラストが大きいといえます。

それを「いのち一ぱいに」と作者は表現し、それに自らの生を重ねているのです。

 

一所懸命に咲いている桜、それを眺める自分にも、ふつふつと精一杯、命を傾けてこの生を生きようとする、岡本かの子の思いが伝わってきます。

「さくらばな」

「桜花」という言葉は意味は分かりますが、それほど使われないようです。

桜の花を指す煮にも必ずも「桜」といわず、古い和歌においては、「花」というだけで、桜の花であるという共通見解がありました。

願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ/西行法師

ここでは、初句の5文字全部を使って、桜の花で埋めるかのように表現、それが「いっぱい」の印象につながります。

いのちいっぱい

いのちいっぱい」という言葉も、岡本かの子独特の表現です。

「いっぱい」には「今週いっぱい」「箱一杯」などという表現がありますが、それを「いのち」に置き換えたとすると、命が限りのあるものであることが強調されます。

桜の花は今はきれいに満開に咲いているが、やがて終わりを迎えるのだという意識でもあります。

「咲くからに」

「咲くからに」の「からに」は、下句の私が桜をどのように眺めるか、その理由を表します。

ここでは桜の花が、作者の心情を投影したものとなっており、桜自身がそうするという擬人化の修辞が用いられています。

「生命をかけて」

桜の花の時にはひらがなで「いのち」と表現したものを、今度は人である自分を主語にして「生命」と表記しています。

桜と自分とを並置した上で、それぞれの印象に違いを持たせてもいるのです。

この短歌のポイント

この歌のポイントは、桜と自分との同一視にあります。

その上で、「桜のいのち=私の生命」の「いのち」を繰り返すことで、一種の主題である「生命」 を強調しているのです。

またこの歌では限りのある命ということを前提としていますが、儚く寂しい桜の歌ではありません。

また作者は女性であるので、自らの女性性を重ねているようにも思われます。

桜と人の命の短さ儚さを歌った歌はたくさんありますが、西行の「花の下にて」と比べて見ると、西行は「花=自分」ではありません。

「花=私」という同一視は、女性歌人に特有のものであるとも思われます。

岡本かの子の他の桜の短歌は




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