今ぞ知るみもすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは 二位尼・平時子  

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今ぞ知るみもすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは 二位尼・平時子

2021年4月25日

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今ぞ知るみもすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは この和歌は、平清盛の妻である、平時子、二位の尼の辞世の句とされています。

きょうの日めくり短歌は、壇ノ浦の戦いの日にちなみ、二位の尼の壇ノ浦の戦いの際に詠まれた和歌をご紹介します。

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今ぞ知るみもすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは

読み: いまぞしる みもしそがわの おんながれ なみのしたにも みやこありとは

作者名とその読み方

二位尼(にいのあま)平時子(たいらのときこ) 建礼門院(けんれいもんいん)の母 (すべて同一人物の名前)

現代語訳

今こそわかります。伊勢の五十鈴川の流れをくむ、あなた安徳天皇よ、この波の下のにも都があるのですよ

語句解説

みもすそ川(御裳川)は伊勢の五十鈴川の別称。安徳天皇は、伊勢平氏の嫡流にあたる。

安徳天皇は、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)とする高倉天皇の第一皇子であった。

みもすそ川の様子

 

平家の系図

平時子は、平清盛の妻だった時の名。清盛を弔うために尼となった。

建礼門院は平徳子(たいらのとくし)。孫が安徳天皇となる。

句切れと修辞

初句切れ 3句切れ 倒置法

 

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解説と鑑賞

壇ノ浦の戦いの折、平時子の辞世の句といわれる。

この歌の通りに、幼い安徳天皇に「波の下にも都がある」と言い聞かせ、海中に身を投じたとされる。

ドラマなどだと、壇ノ浦の合戦のクライマックスとして描かれる部分となる。

安徳天皇は、即位時は3歳、祖母である二位尼と共に入水した時は、わずか6歳、数えで8歳の時であった。

『平家物語』より

「平家物語」によるとこの部分は、以下のように記述されている

最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した(『平家物語』「先帝身投」より)。―wikipediaより

平家と源氏の最後の戦いの場となった、壇ノ浦にはこの歌の記された石碑がある。

 

安徳天皇陵での昭和天皇の御製(短歌)

安徳天皇陵に詣でた時の昭和天皇が詠まれた御製(短歌)

水底に 沈みたまひし 遠つ祖を かなしとぞおもふ書(ふみ)見るたびに

「赤間神宮ならびに安徳天皇陵に詣でて」昭和三十三年

安徳天皇陵は、山口県下関市阿弥陀寺町の「安徳天皇 阿彌陀寺陵」にある。

 

「三種の神器」とは

安徳天皇が身に着けた三種の神器とは、勾玉と神鏡、宝剣の三つのこと。

勾玉と宝剣は平時子が身につけ、神鏡は大納言典侍局という平家の女性が抱えて、それぞれに入水した。

勾玉と神鏡は、水に浮かんだため、源氏が回収したが、宝剣はそのまま水に沈み、見つからなかったという。

「三種の神器」は正確には、

八咫鏡(やたのかがみ)

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、別名:草薙剣、読み:くさなぎのつるぎ)

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

の三つの総称となる。

現在も、三種の神器は宮中、伊勢神宮、熱田神宮に祀られているとされている。

天皇が継承するが、直接観ることは正式な継承者である天皇でも許されないとのことである。

きょうの日めくり短歌は、壇ノ浦の戦いの日にちなみ、二位の尼の壇ノ浦の戦いの際に詠まれた和歌をご紹介しました。

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