笹井宏之さんの「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい の短歌が、朝日新聞で紹介されました。
笹井宏之さんの短歌を英訳と併せてご紹介します。
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笹井宏之さんの短歌
笹井宏之さんの短歌が朝日新聞のコラム「ピーター・J・マクミランの詩歌翻遊」で紹介されました。
笹井宏之さんは、惜しくも26歳で亡くなってしまいましたが、多くのすてきな歌を詠んでいます。
笹井さんの短歌のこれまでの記事は
笹井さんの今回取り上げられた歌は、下の歌です。
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい
口語で詠まれた短歌なので、歌の意味はそのままでわかると思います。
点字を指でなぞっていったときの感興という着目が新鮮な歌です。
点字をなぞって、桜のようである、その可能性を感じるというのです。
点字を詠むということ
通常、点字を知らない人は、突起を見てもなんだかもちろんわかりませんし、指でなぞっても、もちろん同じことですね。
作者は点字が読めたのかはわかりませんが、おそらく想像ではないでしょうか。歌の中では、「はなびら」の点字が、目ではなく指でなぞって読めたことになっています。
「桜の可能性」とは
それだけで「これは桜」ということを直感するのはなぜでしょうか。
普通、健常者は、視覚で文字と言葉を知ります。
しかし、作者のこの時行ったことは、通常の知覚のルートではなくて、触覚で文字を知るということです。
もし、人の行いうる可能性の高いことと言えば、実際に点字を触るのではなくて、植物を触ることの方でしょう。
点字を一度も触ったことのない人はいても、植物に一度も触れたことのない人はいないでしょう。
作者は、点字に触れることと、実際に花の花びらを触ることとを重ね合わせて、上の歌を思いついたのかもしれません。
桜の花や枝、そして香りや、春の気温も含めて、目をつぶって桜に接し、「何の花だろう、当ててみよう。どうやら桜かもしれない」というのなら、ありえそうなシチューションです。
上の歌は、その桜を平面の紙の上に点字として置き、人の指を介して、それが、立体の桜として浮かび上がるという稀な瞬間を形作っています。
「はなびら」の短歌の英訳
この歌を紹介したピーター・J・マクミランさんは、この歌を以下のように英訳しています。
Tracing the letters
P-e-t-a-l in braille,
-aah-
there's a strong possibility
that it's a cherry blossom.
翻訳者の力を入れたところは、2行目の「P-e-t-a-l 」の「点字をゆびでなぞるときの動きを再現」するところにあることを、自ら指摘されています。
その上で、英訳の印象をいうと、「はなびら」の柔らかな音と、「p」で始まる「petal」は、やはりかなり印象が違います。
それと、英語だと、4行目に 「there's a strong possibility」が先に来て、「cherry blossom」が、一番最後に来ますが、短歌の構造上からいうと、「はなびら」が初句にあるのなら、「桜」はできるだけ近くにあった方がいいのです。
その方が、桜のイメージが長く続くからです。
転換点となる三句「ああ、これは」
短歌の上の2句は、行為の描写、下の3句は作者の内心の声です。
「ああ、これは」は、その転換点となる句です。
英訳は、「-aah- 」に中間の一行を使っていますが、日本語の「ああ、これは」は「間投詞+代名詞」なので、言葉の上では大きな意味を持ちません。
たとえば、枕詞のようなものがそうですが、「ああ、これは」と間をおいて、「桜」と出てくるところは、「ああ、これは」に言葉の意味はなくても、短歌の構造上は、ひじょうに大きな意味があります。
最初から「絶対に桜」ではなくて、「桜かもしれない」から、「やはり桜といえる」の控えめな確信というべき主張の柔らかさと、具体ではない直観というものも、この「ああ、これは」の意味のない言葉の間合いが醸し出すものです。
古語を用いる近代短歌でも、「ああ」は使われますが、このあいまいと言える3句は、口語短歌ならではの言葉の使い方、口語でなければ読めない歌であるのは、言うまでもありません。
作者には他にも桜を詠んだ歌があります。
葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある
-関連記事:桜の短歌【近代・現代短歌より】
こちらも身近な母上を詠って、美しい歌です。
笹井さんの歌は、最初は家族を詠むこと、家族に歌を見せることから投稿が始まったようです。
惜しくも早世されてしまいましたが、散った花びらが届くように、笹井さんの歌が今日もまた読まれているのです。
きょうの日めくり短歌は、笹井宏之さんの短歌をご紹介しました。
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