咳をしても一人 尾崎放哉の教科書掲載の代表的俳句の切れ字や句切れ、作者の心情を解説、この句の感想も記します。
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咳をしても一人
読み: せきをしてもひとり
作者と出典:
尾崎放哉 おざきほうさい (「尾崎放哉全句集」)
現代語訳
何をするにしてもたった一人、咳をしても一人であることを思い出す
句切れと切れ字
句切れなし
切れ字なし
季語
自由律俳句だが 「咳」は冬の季語
表現技法
五七五よりも短い「短律」
一句は、6文字+3文字で、定型にとらわれない字数からなる
形式
無季自由律(自由律俳句)
五七五の定型によらない字数を自由に設定する俳句の形式
注:「咳」の季語は用いられているが、季語としての用途・目的ではない
自由律俳句とは
自由律俳句(じゆうりつはいく)とは、五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。季題にとらわれず、感情の自由な律動(内在律・自然律などとも言われる)を表現することに重きが置かれる。文語や「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いず、口語で作られることが多いのも特徴―wikipedia
解説
尾崎放哉は種田山頭火とならぶ自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人、その代表的な俳句がこの句に当たる。
尾崎放哉は、寺男をしていたが、定職というほどではなく、家族はいない。
俳句の背景と放哉の生涯
尾崎放哉は、本名秀雄、東京帝大を卒業後、生命保険会社に勤めており、妻をめとって市井での生活を営んでいたが、アルコールが入ると、相手を罵倒するなど問題行動が多く、転職先の会社を免職となったようです。
京都の一灯園に入所に妻と共に入所しますが、そこでも禁酒の約束を破るなどして、周囲に見限られます。
その後は、妻に離縁され、寺を転々とし、最後は小豆島の寺の庵で、結核のため亡くなりました。
尾崎放哉と俳句
伝記を読むとあまりにも無残な生活ですが、尾崎要塞は、その孤独な漂泊の生活の中で、自由律俳句の句を高めていきました。
晩年の2年間で、名句が生まれたのは、晩年の2年間、最後8カ月の小豆島の生活では、約3千句を詠んだとされています。
尾崎放哉の句の特徴
- 本代表作に見る口語俳句・短律句の確立
- 率直明快で詩情に富む句法
- 無常観と達観の洒脱味
尾崎放哉の孤独な生活
尾崎放哉は、教養の高いエリートでありましたが、寺男になってからは、ただ一人の生活でで、托鉢などもらった食べ物によって生活していました。
酒の外で、周囲にも妻にも見限られ、俳句関連の投稿と、師の荻原井泉水の他は、人との付き合いもなく、話し相手もいませんでした。
最期をみとったのは、隣家の老婆であったということです。
私自身のこの俳句の感想
自分の孤独を声高に主張するのではなく、ただ「咳をする」という自分の行動を描写、そこに「一人」を加えるだけで、いかにも味のある俳句となっています。俳句は17文字のもっとも短い詩型ですが、この俳句はもっと短く9文字しかなく、それでも「詩」として、伝えるものが成立しているところが、大変に優れていてすごいと思いました。
作者尾崎放哉について
おざき‐ほうさい〕【尾崎放哉】[1885~1926]俳人。鳥取の生まれ。本名、秀雄。波乱に富んだ生活の中で、独自の自由律の句境を確立した。句集「大空たいくう」。
尾崎放哉の有名な俳句
こんなよい月を一人で見て寝る
入れものが無い両手で受ける
障子あけて置く海も暮れ切る
足のうら洗へば白くなる
肉がやせてくる太い骨である
これでもう外に動かないでも死なれる
春の山のうしろから烟(けむり)が出だした(辞世)
尾崎放哉のおすすめの伝記
尾崎放哉の生涯を綿密に取材、小説風にまとめた吉村昭の伝記小説がもっともおすすめです。