「我を頼めて来ぬ男角三つ生ひたる鬼になれ」「梁塵秘抄』の代表的な今様の歌詞の現代語訳と解説を記します。
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『梁塵秘抄』について
『梁塵秘抄』とは、後白河院が作った平安時代後期の歌謡集でで、「仏は常にいませども」は、それに収録されている今様というジャンルの歌の歌詞の一つです。
『梁塵秘抄』読み | りょうじんひしょう |
作った人・編纂者 | 後白河院(後白河法皇) |
作られた時期と時代 | 平安時代後期 (12世紀) |
収録された歌謡のジャンル | 今様 |
梁塵秘抄の全巻 | 類推で全20巻 |
※梁塵秘抄解説記事
梁塵秘抄とは 内容解説 後白河院の平安時代の歌謡集
『梁塵秘抄』の有名で代表的な歌
我を頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎(うと)まれよ. 霜雪霰(あられ)降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ. 池の浮草となりねかし と揺りかう揺られ歩け
―梁塵秘抄 四句神歌 雑 339
現代語での読み:
われをたのめてこぬおとこ つのみつおいたるおにになれ さてひとにうとまれよ しもゆきあられふるみずたのとりとなれ さてあしつめたかれ いけのうきくさとなりねかし とゆりこうゆられあるけ
「我を頼めて来ぬ男」の現代語訳
この今様の意味は下のようなものです
私を頼めて思わせておいて来ない男よ 角の三本はえた鬼になってしまえ そうして人に嫌われてしまえ 霜・雪・霰のあらゆる冷たいものの降る水満ちる田んぼの鳥となってしまえ。さぞ足が冷たかろう。その池の浮き草となってしまえ。あちらへ揺られこちらへ揺られて漂い歩けばいいのだ
語句の解説
・頼めて…頼みに思わせて
「来ぬ」の読みと品詞分解
「来る」は、「きぬ」と「こぬ」の二つの読みが考えられるが、ここでは、否定を表しているので、「こぬ」と読む。
「来(こ)」は未然形
・角三つ…通常の鬼は角が2つが多いので、3つというのは、それを超える怒りが想定でき、醜いことも強調。(以下の解説参照のこと)
・さて…「そのままで」の意味
・水田の鳥…冬の季節を表しているが疑問もある。(解説参照のこと)
解説
『梁塵秘抄』の長歌ともいえる、長文の歌で、裏切った男性への恨みつらみをここぞとばかり歌います。
相手に要求される者は
- 角三つの鬼に
- 水田の鳥
- 池の浮き草
の三つです。
これら、男が変異するべきものの属性がそれぞれに歌われているのが、この今様の歌の特徴です。
「三本の角」
この歌で印象にの残るのは、「三本の角」を持つ鬼の描写で、これは、解説によると「恐ろしく醜く、嫌われる存在」とされていたようです。
恨みを持つ相手だからこそ、そのように醜くなれというのが、この歌の最初の呪詛の部分です。
「水田の鳥」
「水田の鳥」というのは、冬の季節を表します。
その上に「霜・雪・霰」と、あらゆる氷に近い低温の雨のバリエーションである冬のアイテムが並べられます。
水の上で、それらの氷と風に吹かれて、「足が冷たくなれ」と具体的です。
これらはいずれも「そのまま」の意味の「さて」でつながり、鬼が「さて人に疎まれ」、鳥が「さて足冷たく」と並べられています。
「池の浮き草」
そして、最後の「池の浮き草」はそのまま冷たい水の上で、「ゆらゆらあっちに行きこっちに行き」と、思うさま相手を翻弄しようとする言葉が並べられています。
歌う遊女との共通性
不思議なことですが、この歌を歌う女性の遊女の方が、このような恨みを募らせていたのであれば、自らが醜く変容して相手を呪ってもいいのですが、ここでは、男性の方が「醜い見た目になれ」と詠われています。
それは後に出てくる次の「池の浮き草」も同じです。
一定の場所に定住するのではない「鳥」、そして浮き草稼業という言葉があるように、これら今様を歌う遊女こそが「浮き草」と呼ばれることにふさわしい存在です。
そして、今様を歌った遊女の中でも白拍子は、船の上で歌と舞を見せるということを仕事としていました。
彼女たちこそが、人に芸を見せる、醜くはないが、逆に美しい容姿を以てして人の注目を浴びるべき存在です。
そして、暑い日も寒い日も、水の上の船の上で詠っては舞い踊り、そのように日々を暮らしているのです。
そして、最後の
と揺りかう揺り揺られ歩け
「とゆりこうゆり ゆられあるけ」との部分は、実際に船の上で揺られながら、踊りの足踏みをするにはぴったりの歌詞となっています。
「水田」とは
「水田」は俳句では夏の季語で、稲を植えるために水を張った田んぼのことを言います。
しかし、この歌では「霜雪霰」に続いて「足が冷たく」と言っているので、冬のことを指しているのは明らかです。
遊女がこれを歌っていたのは、「田んぼ」ではありませんで、「川の上」ではなかったでしょうか。それを置き換えて「水田」と言ったのではないかと思われます。
「紫式部日記」にある今様
紫式部の日記、「紫式部日記」には、
舟の中の公達が「池の浮草」と今様の一節を歌い、笛などを吹き合わせている
の記述がみられ、この歌がよく知られていたこともわかります。
巷でも好んで歌われていたことから、おそらくは軽やかで、リズムの良い謡いぶりであったのでしょうが、遊女自らの身の不遇をありったけ相手に重ねようとする歌詞は、内心の恨みは強いものであったのでしょう。
今様の研究家の馬場光子氏は、この歌の鬼は鬼よりも「丑の刻参り」の頭の三本の矢と同じであるところに注目、軽やかに見える今様の中にある、この歌の作者の怒りを推察しています。
しかし、出てくるものが明らかに皆自分を主語にしてもいいもので、歌い手である遊女と相手の男性との間に一体感を感じさせるような、不思議な印象を与える今様の歌詞といえます。
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