長塚節は正岡子規に師事したアララギの歌人であり、小説『土』の作者でもあります。
長塚節についてまとめます。
長塚節とは
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長塚節(ながつか たかし)は明治時代に茨城県に生まれ水戸中学に進んだ後、正岡子規に短歌を師事。
伊藤左千夫と並ぶ初期アララギの代表的な歌人の一人です。
正岡子規の写生を継承し、写実主義の短歌を詠んだ他にも小説『土』の作者として有名です。
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長塚節の死因
家業の傍ら文筆に励みましたが惜しくも36歳で早くして亡くなりました。
死因は喉頭結核で、亡くなったのは茨城県の生家から遠い、九州の病院です。
斎藤茂吉は一周忌に九州「筑紫」を詠み込んだ追悼の歌を詠んでいます。
しらぬひの筑紫のはまの夜さむく命かなしとしはぶきにけむ
君が息たえて筑紫に焼かれしと聞きけむ去年のこよひおもほゆ<
長塚節の代表作は『鍼の如く』
長塚節は生前には歌集は出しませんでしたが後に『長塚節歌集』として作品がまとめられたもので詠むことができます。
その代表作は後期に作られた『鍼(はり)の如く』の連作232首です。
長塚節の短歌代表作品
長塚節の短歌の代表作として知られる、有名な作品3首は以下の通りです。
垂乳根の母がつりたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども
馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉じて想ひみるべし
白埴(しらはに)の瓶(かめ)こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くにみけり
それぞれの解説ページはこちらから
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長塚節の短歌代表作 歌集『鍼の如く』
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長塚節の生涯
長塚節が生まれたのは、1879年(明治12年)4月3日。
生家は茨城県南西部の結城市、現在の常総市の豪農でした。
水戸市に下宿をして水戸中学に進み首席で卒業しますが、神経衰弱を患います。
正岡子規との出会い
その後は、家業の農業を継ぐ傍ら、正岡子規の短歌を読んだのがきっかけで自らも短歌を作り始めます。
子規の死後は跡を継いで伊藤左千夫他とアララギを創刊、正岡子規の歌論にのっとり写生と写実主義の短歌を継承しました。
代表作小説『土』
代表作の小説『土』執筆のきっかけは夏目漱石からの依頼があったためでした。
『土』は短歌と同じく、写実主義に沿って農民の生活がつぶさに描かれました。
農民文学のさきがけとなる重要な作品と評価され、小説での長塚節の表作となっています。
この小説は『東京朝日新聞』の新聞小説として連載されたもので、執筆はたいへんであったようで、それが結核の発症を招いたともいわれています。
結核の発症
1911年(明治44年)8月頃から喉の痛みを訴えて受診。
いずれも喉頭結核との診断で余命1年と宣告されます。
東京の根岸養生院で手術を受けるなどしますが、名医と言われた九州大学の久保猪之吉博士を頼り、九州と東京の両方で入院しながら治療を続けます。
この頃から、長塚節は遠地へも積極的に旅行するなどしますが、九州帝国大学附属病院で36歳で亡くなります。
長塚節と恋愛
長塚節は生涯未婚でした。
何度か見合いをしましたがまとまらず、女性との恋愛は唯一お見合いをした黒田清子だけであったようです。
黒田とは婚約するまで話が進みましたが、長塚節の結核が発覚し破談となる結末を迎えています。
この時の心情が悲恋として歌に残され、胸を打つ作品となっています。
長塚節の記念館
長塚節だけの記念館はありませんが、お城の形をした建物である常総市地域交流センターには、中に長塚節の直筆の手紙他が展示され、デジタル映像とビデオで短歌作品が紹介されています。
常総市石下町地区には、地域交流センターの入り口他三か所に、旅姿の節像が全部で3カ所建てられています。
長塚節の歌碑
長塚節の歌碑は全国45か所にあります。
上の歌碑はその一つ、地域交流センターの庭に建立されたものです。
長塚節文学賞
常総市では短編小説・短歌・俳句の三部門について長塚節文学賞を設けて毎年表彰するなど、節の文業を顕彰しています。
長塚節文学賞については常総市のページをご覧ください。
長塚節関連の本
長塚節の伝記としては、藤沢周平による伝記小説があります。
あくまで小説ではあるのですが背景を含め大変詳細に書き込まれており、おすすめの本です。