額田王は初期万葉集の主要な女流歌人です。
額田王はどのような人なのか、和歌の代表作と合わせてお知らせします。
額田王はどんな人
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額田王(ぬかたのおおきみ)は初期万葉集の時代の歌人の一人で、天智天皇の妻だった女性です。
万葉集に才気あふれる相聞を含む歌があるところから、魅力的な女性であったと推測されています。
歌の才能があった額田王
額田王は元は神を祭ることや宴会の興を添えることを仕事として後宮に仕えていた女官ではないかという説もあります。
また、天智天皇の妻となってからも、三輪山の歌などの性格や特徴から、天皇の代わりに歌を詠む役割があったともいわれています。
いずれも「歌が上手」であったところが額田王の大きな特徴であり、そこからの推測が額田王がどんな人だったかを形作る手掛かりとなっています。
「日本書紀」の額田王の記載
額田王について直接には日本書紀には下のような記述があります。
「鏡王の娘で大海人皇子に嫁し、十市皇女を生む」
実は「鏡王(かがみのおおきみ)の娘」という以外詳しい出自や生年などもわかりません。
古い時代のことなのでその時代の人には有名でありながらそのような人もたくさん含まれています。
額田王のことがわかるのは、その家族と家族をめぐる歴史上の出来事、それと額田王の詠んだ和歌からです。
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額田王の家族
父は飛鳥時代の皇族、鏡王(かがみのおおきみ)。
万葉集の歌人、鏡王女(かがみのおうじょ)は額田王の妹とされています。
額田王の夫
額田王は飛鳥の宮廷に入り、まず舒明天皇の息子である大海人皇子(おおあまのおうじ)、後の天武天皇と結婚します。
そのあと兄の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、後の天智天皇の妻になります。
天皇と結婚したのですから元々が地位の高い皇族であったに違いありません。
百科事典の記載では
『万葉集』初期の女流歌人。生没年不詳
7世紀後期の女流万葉歌人『日本書紀』に鏡王の娘とあるが、鏡王については不明。同じ万葉女流歌人で藤原鎌足の室となった鏡王女 (かがみのおおきみ) の妹とする説もある。大海人皇子 (天武天皇) に愛されて十市皇女 (とおちのひめみこ) を産んだが、のちに天智天皇の後宮に入ったらしい。この天智天皇、大海人皇子兄弟の不仲、前者の子大友皇子と大海人皇子との争い、壬申の乱などには彼女の影響が考えられる。―ブリタニカ百科事典
壬申の乱との関連は
ここでもっとも注目したいのは壬申の乱への影響です。
一説には、天智天皇と大海人皇子が額田王をめぐって争いがあったことから、壬申の乱に発展したという推察があります。
額田王の三角関係説
ただこの説は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の歌の解明が進むにつれて今では説得力の弱いものとなっています。
この歌は額田王が大海人皇子に送りそれに対して皇子が返歌を送った相聞、つまり恋愛の問答歌です。
ただし今では、これらの歌はめいめいの手元へラブレターとして送られたものではなくて、宴会の席で皆が集う前で舞を伴いながら朗詠されたということがわかっています。
けして不倫の関係があったということでなく、壬申の乱は額田が原因というよりやはり兄弟の権力争いであったのでしょう。
この歌の解説は
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 有名な問答歌
額田王の和歌作品について
額田王の残した歌はそれほど多くはなく、短歌が9首、長歌が3首、全部で12首の歌があります。
数は多くはありませんが、いずれもすぐれた歌で額田王の才気があふれています。
額田王の和歌の特徴
額田王の歌の特徴は、一言でいうと、「ふくよかでありながら、力強く凛々しい」歌です。
また、他の歌人と比べて明らかに個性的であり、豊かな感情にいろどられています。
音調の点からは力強い調べを持っていて、読んだ時に印象に強いものがあります。
当時は和歌は読むものではなくて、実際に声に出して謡うものだったので音韻の点からも整えて作られたのでこのような特徴も当然なのですが、額田王の歌は職業歌人と見まごうほどに整って作られているのです。